【友達が自分にはいたということ。15年かけてそのことに気付く #restartストーリー 28】
「これが友達との会話なんかな」
この9月、結構、友達と深い会話をしていました。
ここ10年ほど色んな人と「生きる」ということから「仕事」なども含めて本音の話をしてきました。
お酒を飲まなくてもカフェで深い話ができる日々も好きだし、本気で人生のことを話せる人は片手だけでなく両手でも数えきれないぐらいにいます。
ただ、それを友達とは思っていませんでした。
どちらが上位とかそんな話ではありません。
僕の中では「本音で話せる人が多いな」で止まっていました。
僕の周りには小中からずっと縁があって、もう20年・30年の付き合いという話をする人がいます。
素直にうらやましい。
小さな頃も共有できて、そして、学生時代に大人になって、社会人からさらに結婚を挟んでの家族ぐるみの生活という話を聞くともう想像だけでお腹がいっぱいになってしまう気持ちです。
10代中盤・後半は学校に行っていなかったこともあり、同級生の友達が本当に少ないです。
それがずっと寂しくて寂しくて。
「同級生の〇〇」というカテゴリーがほぼないんです。
もちろんいますが、長年続けて毎年のように会い続けた友達はいませんでした。
僕には本気で人生のことを話せるコミュニティや人との付き合いはあるけれど、テーマとか関係なしに色んな起こったことを何時間でも話せるそんな関係性が10代をほぼ一人で過ごしたこともあって、「ありえない」ことだと思っていました。
そうしたら、そんな経験がこの9月できました。
ずっと人生については話をしたり、色んなテーマでもやり取りをしたり、話はよく聴いていました。
ただ、僕自身の話は振られるまで待つスタンス。
結果、聞かれない限り自分のことは話さなくなりました。
それが「実は〇〇があって」とか「仕事の話だけれど」と何かツッコまれそうなことをボロッと友達に話をしました。
それからメッセンジャーなどでやり取りを繰り返したり、色々とありました。
そして、感じたのが「友達が僕にはいたんだ」ということ。
長年色んな場面を思い出しては話ができる人間関係。
あのこともこのこともお互いに覚えていて、それがただただ嬉しいです。
僕の中での友達像が体験としてあらわれて、それを41歳になって気づきました。
きっとこのことだけに限らず、「自分にはないわ」と思っていたことももう掌に掴んでいたのかもしれません。
見てなかったのは自分自身。
気づいていなかったのは自分自身。
すべてそれに尽きますね。
このことに気付いて、僕の中で「あの人も友達かな」「この人ともずっと縁があって、まさに友達」。
ずっと孤独の中にいると段々人間関係でも自信がなくなってしまうことがあります。
ただ、そんな時でも身近に誰かがいたり、次の出会いやつながりに関わるご縁の兆しもあるかもしれません。
掌を見て、掴んでいる何かはありませんか?
それは仕事なのか大切な存在や家族なのか自分自身なのか強弱はあるかもしれませんが、あらためて気づけると新しい次の生き方にも変わってくるのかもしれないと思う、この9月末でした。
『友達が自分にはいたということ』
ここまで読んでいただきありがとうございました。
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