苦楽を分かち合うことが、本当の“共生社会”なんじゃないか
コロナ禍での開催、史上2回目の開催となる、“東京2020パラリンピック”が、9月5日に幕を下ろした。
いろいろな生きづらさ(※1)を持つ人たちが、それぞれに工夫しながら、いろいろな競技で熱戦が繰り広げられた。
今回のパラリンピック期間中、各メディアでは選手の活躍だけでなく、選手の日常生活の様子が多く取り上げられたように思う。
身体を思い通りに動かせないとか、身体の一部が欠損してるとか、そういった、選手たちの生活上の創意工夫を、たくさんの人が目にできたのは、いいんじゃないかなって思う。
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“東京2020”はコロナ禍での開催だったことで、海外から来た選手や関係者を含めて、“現地へ行く観光”は全くできなかった。
オンラインでのホストタウンとの交流は実施されたみたいだけど、そこはオンライン。
視覚・聴覚的に情報は得られるけど、“実際に触れて感じるもの”もあると思う。
東京2020は、“直接触れて感じる”ことが難しかった。
私は、視覚・聴覚的な情報よりも、“直接触れて感じる”ほうが、記憶にしっかり残りやすい。
後日、想起するのも簡単だ。
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日本には、“○○月間”とか、“○○週間”、“○○の日”がいっぱいある。
これは、“イベント”だ。
その日、その期間、1つのことを意識する。
たとえば、“自殺予防週間”(9月10日〜16日)。
これは、夏休み明けのこの時期、自殺者が増加するので、「あなたもゲートキーパー(※2)になれますよ」と研修を催したり、自殺に至ってしまう前の相談先を紹介するプロモーションが街中で見られるようになったり…
多分、誰もが、嫌でもこの週間について、意識をしたり、見聞きするはずだ。
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上に挙げたような週間や月間は、その場限り、短期間で多くの人に、そのトピックについて知ってもらうことができる。
その月間やら週間が、生きづらさを感じている人に関係するものだった時、私はいつも思う。
「この日、この期間が過ぎれば、こんな人たちのことなんて、多くの人はきれいさっぱり忘れちゃうんだろうなー」
と。
教育の場でもそう。
“副学籍”といって、特別支援学校に籍を置きながら、その子の地域の小・中学校にも籍を置き、月に1回なり、週1回なり、事前に決めた頻度で1日だけ、支援学校ではなく、地域の学校に登校するというシステムがある。
これも、“イベント”だ。
「生きづらさのある人のことを知りたい」とか、“共生社会”なんて言うならば、“イベント”ではダメだと思う。
その人と寝起きして、衣食住をともにして、苦楽を分かち合う…
そのくらい、ずーっと一緒に過ごさないと、生きづらさを持つ人の感じ方や苦労はわからないと思う。
日本は、もっと、街中を、生きづらさのある人が、気軽に出歩けるような、でっかい心になるといいと思っている。
< 注釈 >
※1 生きづらさ=障害と同義で用いる。
※2 ゲートキーパー … 自殺を考えている人に気づき、寄り添い、見守り、支援につなぐ役割。 資格はいらない。
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