その先に、何があるのか。。。
私の息子は私に似てるところがたくさんありまして、性格はほとんど私寄りです。ちなみにインドアでサイバーの虜なところも私寄りです(苦笑
で、私と一緒ですぐ怒るんだけど、それが大体反対意見とか、意見された時の着火点低すぎだよ、君。。。つか、なんでそんな態度でかいの、ってほんっと思うわ。。
あと、正しいこと、自分が正しい!の主張が多い。自我が強い両親だし、祖父母だし、もっと言えばもっと上から自我が強い人しか居ないファミリーなんで、まぁ、しょうがないんだけど、見てて思うわー。私だ。。。って。
ときには正しいことが求められているわけじゃないのなら、そこで正しさを主張して、で、結果はなんなのか?という話なんですよ。そこで言い負かせればハッピーなのか?結局何も変わってないし、それって鬱憤晴らしてるだけじゃん?
昨日は運転練習を自動車学校でやってきたんですが、周りを見ていない、とか、停止でちゃんと停止してないと注意されてきたそうで、「僕はちゃんとやった!周りを見るなんて(ちゃんと見てるんだから)首や頭をわざわざ動かすのなんかばかばかしい!」って言ってるんですよ。でもね、そのままでは結局
運転実技は落ちるわけですよ。
ならね、足りなかったところを足せばいいわけよね。それがどう間違ってようが正しかろうが。でもそうなると、権力に負けるとか思うのかしらね?
私が若かりし頃は、ジャンヌダルク(ジャンヌ・ダルク、は間違いだそうですよ。Joan of Arcなんで、ジャンヌ、さんじゃないんです)よろしく、しょっちゅう正義感かざしてた。裁判官とか弁護士とか絶対向いてると思ったし、悪を憎む毎日でしたよ。。。あら私の横にも同じのがいるわ(息子)。
でも大人になるとわかるでしょう?声を荒げて勝てるもんでもないし、思ったとおりになるわけでもないし。所詮、子供が声あげてたって負ってる責任なんて微々たるもので。若いって素晴らしいわね。本当に無責任に声を上げられる。あ、メンタル的にね。若いっていうか子供っていうかね。私なんだけど。メンタル大人な人は、大切なときに大切な発言や行動をするでしょ?ダンディズムって感じよね。
でも社会に出て、黒白じゃなくグレーも色々あって、色々飲み込んだり、視点のちがいであって善悪じゃなかったり、譲れないことでお互い傷つけたり、どちらが間違ってるんじゃないけど、相容れなかったり、白黒じゃ説明できないことがたくさんある。そして発言に責任が伴っていく。それが大人になるってことならば、
息子よ、あなたのその正義は、怒りは、なんのためなのか、なのですよ。
息子が大きな態度で父親に反発する。ええ、思春期なのでそれも大切なんだろう。でも、それで引いてくれた父親は、負けたわけじゃなく大人なだけで、じゃ、息子よ、何を手に入れたんだい?と昨日の彼を見て思うわけです。
そして(彼にそっくりな)私は、何を手に入れてきたんだろう?
なにかそぐわない事を言われるたびに、批判された、否定された、攻撃された、と思っているフシがあり、自衛のために声を荒げ、自我を通してる自分(すなわち息子)というのが見えてきました。
でもね、いつから、何から、反対意見が攻撃、と思い込んだんだろうか?
仕事先で、16性格テスト結果~なんて話をしながらお互いの紹介をする時間があったんですけど、みんな言うんですよ。建設的批判ならば、受け止めるって。
私無理。
外面では、そうだよねーって言えるけど、内ではきっと、どうやって自分を消そうかとか、もー闇への渦が大きな口を開けて待っていることでしょう。
でもこれってほんっと、どこから来たんだろう?
赤ちゃんのおぎゃーを聞いてもらえなかったから?自分のしたい通りにしてもらえなかったから?そんなレベルじゃない、攻撃、をいつかどこかで受けたんだろうか?
そう思うと、子育てで思い出します。ええ、理不尽に怒ったこともあります。本当にいい子に勝手に育ってくれたとしか思えない(それか夫のおかげ)。
でも、本当に言うこと聞かなくて、当時ハマってたおもちゃを全部捨てられたことのある息子。私も一回、言う事聞かなくて、当時ハマってたドラムセット捨てるぞ!と脅したこともある(サンタさんがくれたんだから、ママが捨てられるわけない!とかいいやがった、口の立つ息子め)。
きっと私にもどこかであったんだ、それ。それを体験したか、見たか。攻撃される!!っていう経験。
あー、これ、自分自身の記憶の書き直しが必要です!!!!
しかも多分、何もしなかったのに攻撃された!って思ってる!!!
(私、マイナー事象ですが、いじめられてもいたんで。。。あ、多分すごいマイナーです。もの壊されるとか、ハブにされるとか、悪口言われるとか、面と向かって集団で、あんた嫌いって言われるとか、よくあるやつね。誰にもあるよとは言わないが、比較的よくあるレベル)
表層意識では、大人だし?分かってるんですよね。何かが気に食わなくて、いじめられたんだなーとか。何かやらなきゃいけないことやらなかったり、やるべきじゃないことをして、怒られたんだなーって。きっとすごく普通の因果応報。
でも、深層では未だに攻撃された!って思ってる。だって、息子へのしつけが、これが攻撃だったかも!って分かっちゃうんだもん。そういう視点がまだ残ってるんだよ。
同時に、その思い込みの再編成も必要だけど、同時にもう一歩先を見るんも大切よね。
今日の写真は分岐点、をキーワードに見つけたものを利用させていただいたんですが、沸点低い怒りの、攻撃されたという思い込みの削除と上書きに加え、自分の行動の結果の先になにがあるのか、を少し考えて行動言動をしてみたいと、息子を見て思った次第です。全てが投影ですからね。
人を変えるなら自分をまず変えないと。
長いものには巻かれろとは言いませんが(私もそんなふうに生きてないし、何もかもを委ねては、それはお馬鹿さん製造機です)、本当にそこに反対する価値が合うのか、自我を通す価値があるのか、大きなもののために小さいものを犠牲にしろとも思わないけど、その小さいものが存在していないとしたら、犠牲にもしていないのに、なぜか、その小さいものにこだわって、私は行動をしていないだろうか、などなど、自分に対して非常に大きな疑問が浮かんで来ているここ数日です。
自分が自分を大切にせずして、誰が大切にしてくれようか。
それなら、自分がそこに関する価値を先に検討してから動いたっていいんじゃないか。だって、大切な自分の、大切な価値なのだから。
無駄遣い、ノンノン!
私、アベンジャーズファンなんですが、インフィニティ・ウォーで、最後に義娘が問うシーンがあります。
「(全宇宙の半数を無に帰するという野望は)叶えたの?」 「ああ」 「何を犠牲にして?」 「全てをだ」
という会話をします。
さて、私の決断には、なんの価値があって、行われるのかな?
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