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あなたが孤独感を感じるのは、スピリチュアルな話に嫌悪感があるからではないか?
こんにちは、ここ最近、魂と体について学んできました。
そしてふと思った。
昔の人はちゃんとわかっていた話なのに!
そしてこんな簡単な話なのに!
なぜ、スピリチュアル、精神性の話がタブーとなったのか!??
わたしが生きてきた平成の時代、宗教と政治の話は争いを生むからとタブー視されてきた。大事なことなのにね。
精神性を奪われて、アイデンティティを知らず、スピリチュアルな話に嫌悪感を抱きながら生きてきた私が代表して、
なぜ、私たちはスピリチュアリティと疎遠になったのか?
スピリチュアルを学ぶとなぜ孤独が癒えるのか?
孤独感の正体をお話ししたいと思います。
スピリチュアルって胡散臭いよね?
「スピリチュアルって、ちょっと怖い」
「信じると危ない気がする」
そんなふうに感じる人、多いんじゃないでしょうか。
もしかすると、あなたも「占いや宗教、自己啓発の話を聞くと、なんとなく嫌悪感を抱く」というタイプではないだろうか。
私も、以前はスピリチュアルに強い拒否反応を持っていました。
「科学的に証明できないものを信じるのは、ただの思い込みでは?」と思っていたし、「スピリチュアルを信じる人=騙されやすい人」のような先入観すらあった。
しかし、あるとき気がついたのです。
それは、花道、茶道、書道、神道...道のつくところの端々にかつてあったであろう日本の美しい精神性のかけらが散りばめられていたから。
「なぜ自分はこんなにもスピリチュアルを拒絶するのか?」
単なる好みの問題ではなく、もっと深い理由があるのではないか——そう思い始めたのです。
調べていくうちに、「自分がスピリチュアルを嫌う理由には、時代の風潮や歴史的な背景があるのかもしれない」と思うように。
そして、道とつくところに散りばめられた美しいパーツを拾い集めながら、手探りでスピリチュアリティを求め始めました。
この記事では、なぜ私たちがスピリチュアルを拒絶するようになったのか、その時代背景を探りながら、精神性を取り戻すことの大切さについて考えていきたい。
もしかすると、あなたが抱いている「スピリチュアル嫌悪」は、実は後天的または、集合意識による影響なのかもしれない。
そして、それを手放すことで、もっと自由に、創造的に生きられるかもしれない…
なぜスピリチュアルに嫌悪感を抱くのか?
「スピリチュアルな話は苦手」「なんとなく怪しいし、信じる気になれない」そう感じる人は少なくありません。さらには「スピリチュアルを信じるなんておかしい」と考える人もいるかも。では、なぜ私たちはここまでスピリチュアルを拒絶するのでしょうか?
昭和平成の時代背景をみてみましょう。
学校教育の影響かも!
私たちは「科学的な思考」を重視する社会に生きています。学校教育では、論理的に説明できるものこそが正しく、証明できないものは信じるに値しないと教わります。例えば、占いや気の流れ、魂の存在などは、科学的根拠が不十分だとして一蹴されがちです。その結果、「目に見えないものを信じる=非合理的で愚か」と考える傾向が強まっていったかもしれません。
高額なツボや絵画の影響かも!
また、スピリチュアルなものに惹かれる人々に対するイメージも影響しています。「何かにすがりたい弱い人」「騙されやすい人」「現実逃避している人」こうした偏見が、スピリチュアルを遠ざける一因になります。
特に、スピリチュアルがビジネスとして利用される場面では、高額なセミナーや怪しげな霊能力をうたう商法などが目立ちました。
「高額な壺を買わないと病気になる」
「商売を繁盛させるには高額な絵を買いなさい」
そんな詐欺まがいのビジネススピリチュアルが社会に蔓延りました。
その結果「スピリチュアル=詐欺まがいのもの」という印象を強めてしまいました。
オウム事件の衝撃と「スピリチュアル=危険」のイメージ
日本社会において、スピリチュアルや宗教に対する警戒心を決定的に強めたのは、1995年に発生したオウム真理教による地下鉄サリン事件でしょう。オウム真理教は、当初はヨガや瞑想を推奨する精神的な団体として広がりましたが、最終的には教祖の絶対的な支配のもと、テロ行為に及びました。この事件は、「スピリチュアルを信じることが人を狂わせるのではないか?」という恐怖を社会に植え付けました。
この影響は現在も続いており、スピリチュアルや宗教に関する話題はタブー視されることが多くなりました。特に、日本では「スピリチュアルに興味を持つこと自体が危険」という風潮すらあります。
新興宗教の悪質な勧誘による不信感
さらに、特定の新興宗教によるしつこい勧誘や多額の献金の強要などの問題も、スピリチュアル全般に対する不信感を助長しています。信者が家族や友人を強引に勧誘し、場合によっては人間関係を壊してしまうケースもあります。特に、統一教会(現・世界平和統一家庭連合)による高額献金問題は社会問題となり、「宗教やスピリチュアルに関わると人生が狂う」というイメージを強めました。
こうした出来事を通じて、「スピリチュアルを信じると、何かに支配されるのでは?」「スピリチュアルにハマると、人を騙す側になってしまうのでは?」という恐怖が、多くの人の無意識に刷り込まれています。
スピリチュアル離れするのが当たり前だよね
このような時代に生きてきた私たちが、得体の知れないスピリチュアルから距離をとりたくなるのは、当前ですよね。保身をするために当然の拒否反応と恐れだと思います。
しかし、こうしたスピリチュアルに対する嫌悪感は、本当に「正しい」感覚なのでしょうか?
もしかしたらメディアの影響もあったかもしれません。
歴史的な背景:精神性を育む文化が失われた経緯
次は、歴史的な背景をみてみましょう。
かつて日本には「目に見えないもの」と共に生きる文化があった
今の私たちの感覚からすると、ちょっと信じられないかもしれない。でも、ほんの150年くらい前まで、日本人にとって「見えないものを大切にすること」は、ごく当たり前のことでした。
たとえば、日本の神道では、森や川、山といった自然のすべてに神が宿るとされていた。地方の山にはいろいろな言い伝えがあります。「大きな木には神様がいるから、勝手に切っちゃダメ」とか… それって、ただの迷信じゃなくて、日本人が長い歴史の中で育んできた「自然と調和して生きる智慧」だったかも。
でも、この精神性が、明治以降、日本の近代化とともに急激に失われていった背景があります。
ミコどんに聞きに行く
わたしは、結婚して主人の田舎で暮らすことになりました。
「ミコどんに聞き行く」という風習があり、死んだ人のメッセージをミコさんに聞きに行くとのこと。各家庭で育ったわたしは初めて聞いた風習に驚いた。それで、歴史を調べていたのだけど…
明治維新と「精神文化」の切り捨て
「散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする」でお馴染みの明治維新(1868年)。
日本は急速に西洋化が推し進められました。
欧米列強に追いつくために、政府は「近代化=科学・合理主義」を押し出したという背景があります。
それに加えて、西洋式の教育が導入されて、「目に見えないものを信じるのは、非科学的で時代遅れ」という価値観が根付いていきました。
明治政府による「巫女禁止」
1872年、明治政府は 「巫女禁断令」 を出し、日本中の巫女の活動を禁止しされました。
それまでは、特定の血筋や家系の女性たちが「神がかり(トランス状態で神と対話すること)」を行い、村や地域の精神的支柱になっていたのだとか。でも、新政府は 「西洋的な近代国家」を目指すために、こうした伝統的な信仰を邪魔なものと見なしたのです 。
巫女禁断令が出たことで、神がかりの儀式も「迷信」として廃れ始め、この頃から 「目に見えないものと繋がること」=怪しい、非科学的という価値観がさらに広まっていったみたい。
今の日本社会では、スピリチュアルな話をすると「うさんくさい」と思われがちだけど、それって 「自分の意志でそう思っている」のではなく、「国の政策でそう刷り込まれてきた」という側面もあるかもしれない。
女性性の排除は、世界で繰り返されてきた
女性の祭祀が排除されるというのは、この時代だけではなく、縄文時代や世界各地で繰り返されてきています。
縄文時代の日本 では、女性が祭祀(さいし)の中心にいたと考えられています。縄文土偶の多くが女性の形をしていることから、当時の人々が 「女性は生命を生み出す神聖な存在」 と考えていた可能性が高いのです。
実際に、沖縄のユタや奄美のノロ(巫女的な存在)など、古くから続く霊的な役割の多くは女性が担っている。
でも、それは日本だけじゃない。
古代メソポタミア では、かつて巫女が神殿の重要な役割を担っていたが、後に男性の神官制度に取って代わられた。
アフリカや南米 でも、もともとは女性がシャーマンとして活躍していたが、植民地化の過程でその文化が破壊された。
ヨーロッパの魔女狩り(15〜18世紀)
→ 何千人もの女性が「魔女」の疑いで処刑された。その多くは、薬草や占星術を使って人々を癒していたヒーラーや助産師だった。
女性の力が排除される共通点
ヨーロッパの魔女狩りと、日本の巫女禁断令は、一見まったく別の歴史に見えるけれど、実は 「女性が霊的な力を持つことを恐れた社会」 という共通点がある。
魔女狩りでは、女性が持つ「目に見えない力」=危険なものとされた。
→ 知識を持ち、人々を癒す女性たちが、「異端」として迫害された。巫女禁断令では、女性の霊的な役割が「時代遅れ」として排除された。
→ 伝統的な祭祀の場から女性が消え、神職は男性中心の制度になった。
どちらのケースも、社会が「男性中心の権力構造」へ移行する中で、「女性がスピリチュアルな力を持つこと」そのものが不都合になった、という背景が見え隠れする。
戦争と敗北がもたらした「精神的な空白」
そして、もうひとつ決定的だったのが、第二次世界大戦の敗北。
戦時中、日本は「国家神道」という形で、精神性を国家統制の道具として使われました。でも、戦争が終わり、日本は敗北。すると、多くの人が「自分たちが信じてきたものが崩壊した」と感じたようです。
その後、アメリカ主導のGHQ(連合国軍総司令部)は、日本の宗教政策を大きく変えました。神社で使われる麻や塩、御神酒などが規制され、伝統的な信仰の形は弱まり押しやられていきました。
さらに、戦後の日本は「とにかく経済成長が最優先!」という時代が到来。精神的な豊かさよりも、「いかに働いて、いかにお金を稼ぐか」が重視される物質主義、経済主義という社会ができあがっていきました。
こうして、「目に見えないものに価値を見出す」文化は、いつの間にか後回しになり、「スピリチュアルな話=怪しい、時代遅れ」というイメージが固定化されていきました。
そうして、精神性を奪われ、つながりを感じる力、縁に感謝することから引き裂かれた現代日本人は、孤独感や無価値観を抱え、心を病んだりするようになっていきました。
だからスピリチュアルと離れてしまったんだ
こうした歴史の流れを見て、わたしは、「だからスピリチュアルと離れてしまったんだ」と納得し安心した。
恐れの原因さえわかってしまえばなんてことはない。
それからわたしは、踏み込んでしまったらやばいかも知れないという恐れのエゴを超えてスピリチュアルな世界に飛び込んでみる挑戦をしてみたのです。
つながりを感じる力としてのスピリチュアルを取り戻す道へ!
スピリチュアルは怖くなかった!
孤独の正体
かつての私は、カルトに巻き込まれるんじゃないか? 何か怪しいことに引きずり込まれるんじゃないか? そんな恐れからスピリチュアルとは距離をおいていた。
そのころは、自分が何者かもわからなかったし、愛?感謝?なんだそれ!おげ〜!!という感じだったし。幸せを外側に求め、人に振り回されてばかりだった。
そして散々な思いをした。
それから、感情と宇宙の仕組みについての学びをするようになり、そのうちにグラデーションで、いつの間にかスピリチュアルな世界に足を踏み入れかけていた。
そして、ある時ふと気づいた。
孤独じゃない!!
この世の仕組みを知れば、孤独になりようがない!!
孤独の正体は「つながりの欠如」。
「誰にも理解されない」「受け入れられていない」と感じること。
単に一人でいることではなく、心理的・社会的なつながりの欠如が本質です。私たちは他者との比較や価値観の違いによって孤独を感じることがありますが、それは同時に自己理解を深める機会でもあります。孤独を恐れるのではなく、自分と向き合い、大切なつながりを選び取る時間と捉えてみてください。まずは自分を受け入れること。それが、心からのつながりを生む第一歩。
その自分とのつながり、世界とのつながりを思い出すのが、スピリチュアル!
だから、スピリチュアルを恐れて孤独感を抱えているあなた、
「本当にスピリチュアルそのものが怖いのだろうか?」
「私は、何を恐れているんだろう?」
ぜひ考えてみて?
もしかしたら、私たちが恐れているのは「スピリチュアル」そのものではなかったかもしれない。
例えば、ヨガや瞑想、自然とつながること。これもスピリチュアリティを探求することの一部。私たちが心の平安を求めて、静かに目を閉じる時、それは何か「目に見えないもの」と繋がっている瞬間でもある。
でも、これって怖いこと? 怪しいこと?
スピリチュアルとは本来、「自分自身を知るためのツール」 だったはず。カルトのように「誰かに依存する」ものではなく、「自分の内側と向き合うための手段」。
自分の内側と繋がって、本音を聞いてあげられるようになれば、孤独になんてならない。
孤独なのは、本音を聞いてあげることができずに、なかったことにしているから。
本当のスピリチュアルとは?
私が思うに、本来のスピリチュアルとは、
「自分が何者かを知る」こと
「この世界とどう調和して生きるかを考える」こと
「目に見えないものに対する敬意を持つ」こと
スピリチュアルって、怪しい宗教でもなければ、自分以外の誰かを盲信するものでもない。むしろ、「自分の中にある力を取り戻し信頼すること」。
自分の中に植えられた、種を大きな木に育てていく作業。
キラキラとしたスピリチュアルでもなく。
ふわふわとしたスピリチュアルでもなく。
得体の知れないオカルトでもなく。
目に見えないもの、感じないものを信じろとも言わない。
目には見えないけど、私の中に確かに芽生えているものを抑え込まない。
ただそれだけて種は育っていく。
そして世界とのつながり、自分のつながりが織り込まれていく。
「スピリチュアル=怖いもの」と感じてしまう人にこそ、本当の意味でのスピリチュアルを知ってほしいなって思ってる。
わたしもまだ途中なので、またわかったことがあったら共有できたらと思います。
最後に
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
私たちは本来、自然と人とつながり響きあいながら生きる存在です。けれど、忙しさの中で本音を忘れ、真実の声が聞こえなくなることもあります。
わたしが運営するメンバーシップでは、ジャーナリングやマインドフルネス、音の力を通じて、魂の記憶を呼び覚まし、理想の人生を形にする。そんな学びを深めています。五感をひらき、自分らしく輝くための道を、ともに歩んでいきませんか?
私たちの祖先が大切にしてきた智慧や、生きるうえでの本質とは何か。宇宙の真理を紐解きながら、その答えを探していきます。
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あなたがスピリチュアリティを取り戻し、自分らしい輝きを放ちますように!
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