「美しい」ってなんだろう?
「美しい」ってなんだろう?
先日、僕がストーリに何気なくあげた、
「美しいと思う現象を美しいと言えるためにも、価値を見出すことのできる人でありたい。」
という文章に対して、桑沢の友人に、僕が美しいと感じる瞬間を問われた。
そんなことを機に、「美しい」と「綺麗」とでは言葉を発する時の心境や、
湧き出てくる意味合いが違うのではないか?という話になり、
物事を美しいと感じる瞬間ってどんな時なのだろう、と考えるきっかけになった。
そんな中で、枯葉メンバーのコメントにあった、
「美しい」は過去から現在までの文脈を含めた表現で、
「綺麗」は現在の状態を表す表現なのではないか?
要は、「美しい」には、そのものや現象の物語が付随しているのではないか?
という文章からヒントを得て、「美しい」と「物語」に軸をおいて、
一度考えを整理してみたい。
僕が「美しい」と感じる瞬間は、逆行に立ち向かう意思を物事から感じられた時。
ボロボロになったカラーコーンがそこに立ち続ける姿と、
川久保玲がファッションの世界で戦い続ける姿は、同じように美しく感じる。
「綺麗だ」というより、「美しい」という表現がしっくりくる。
「美しい」は、僕の想像を介して発される感情であって、
何を美しいと思うのかは、僕の心境によっても変われば、
見る人によっても変わることなのかもしれない。
街中のゴミを見て、何を感じ取るのか。
どんな物語を想像するのか。
何を「美しい」と思うのか。
思おうとするから思うのか。
思うから思おうとするのか。
過去の偉大な画家や芸術家の作品を見て、何かを感じるのは、
歴史やその人の人生、言わば「それに携わる物語」が知識として頭の中にあるからこそで、
それを経て生まれた言語に対して美しさを感じているのかもしれない。
彼の言うように、「綺麗は相手にあって、美しいは自分の中にあるもの」と言う言葉は、しっくりくる。
それと同時に、普遍的な美しさを探し求めることは、
人間の中にある「美しいと感じる欲」を探すことにもつながるのではないかと感じている。
そもそも普遍的な美しさとは一体何をいうのだろうか。
インテリアデザイナーの内田繁先生はよく、「夕陽のようなデザインを目指したい」と言っていたと言う話を聞いた。
僕にとって夕陽は、胸を打たれるような壮大な美しさを感じる現象ではありながらも、
それがデザインと結びついた時点で、「綺麗」という表現に移り変わる。
だから当時の僕にとってその話は、よく理解ができなかった。
大学の卒業設計で考えていた、装飾や機能の在り方とも通ずる話な気もしているが、
デザイン、少なくとも現代の日本の社会におけるデザインは、
計画的であり、人間が意図してそれらを操作することに価値を置かれている気がする。
課題解決のためにデザインが存在するのであれば、それは当然のことなのかもしれない。
だが、現代の情報化社会によって課題そのものが形を留めることなく変化し続け、
課題と思われていることが、あまりに表層的な捉え方をされているのではないだろうか。
仮に、課題解決のためのデザインが現代の社会において破綻しているとするのであれば、
なにを目指してデザインと向き合っていく必要があるのだろう。
僕はそこに、課題提起のためのデザインの在り方が必要なのではないかと感じている。
社会に対してそれは正しいことなのか?と問う力が芸術にはあるように、
デザインにも課題解決と同時に、その視点が必要な気がしている。
「住宅は芸術である。」という建築家である篠原一男の言葉は、何を意図していたのだろうか。
現代の社会において人々は、機能に支配されているのではないか?と問い続けたインテリアデザイナー倉俣史朗は、
どんな未来を想像していたのだろうか。
「美しい」は、人間の想像力を掻き立てる。「美しい」には装飾の力がある。
美しいものや現象が掻き立てる、想像の先にある物語。
何を美しいと思い、何を美しいと思いたいのか。
まだまだ何も見えてはいないが、考えたい。
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