まるで、キャンドルや松明を思わせるこの美しい石は、あなたの前途を明るく照らし出す。
先の見えぬ苦しみは、誰にとっても辛いものである。
この苦労がいつかは報われる時が来るだろうと信じ、願いながら生きる。
だが実際はどうであろう?
あなたは経験した労苦に見合う、結果を得られているであろうか。
大抵の場合、”苦労が水の泡”になっているのではないか。
だがまあ世の中とは、得てしてそんなものである。
人は時折、大きな勘違いをしてしまう。
良い結末とは、決して長い苦しみの果てにあるものではない。
むしろ歓びの先にあるものだ。
結果的に、苦労を苦労とも思わぬ者だけが、成果を手に入れることになる。
たとえばあなたが我が子を育てているとしよう。
当然のことながら、あなたは我が身を犠牲にし、その子の面倒を見るはずだ。
それこそ身を粉にして働き、その子に衣食住、そして素晴らしい教育を与える。
他の子に与えられるものは全て同じように与え、その代わりにあなたは、自分の時間や欲しいものは全て我慢する。
親たるものはそうあるべき、という観念に縛られた結果、貴方は常に眉間にしわを寄せながら忙しく働き、楽しい会話もなく、ただやり場の無い怒りにいらいらとするだけ。
周囲のねぎらいの言葉さえ素直に聞けず、刺のある言葉で返してしまう。
真の笑顔は消え、作り笑いをしている自分にも気付かない。
今を耐えて頑張り抜けば、いつかきっと自分に返ってくるに違いないと
思い込んでいて、我が子の奴隷になっていることにさえ気付かないのだ。
故に、もしその子が自分に背き、恩を仇で返したなら、あなたの苦労は全て
無駄だったと思う他無いだろう。
一方で、同じ苦労を歓びにする生き方を選んだ場合、決してそうはならない。
子は親の背を見て育つものと言うが、実際には、親を喜ばせたいと生まれてくるものだ 。
なのにあなたが笑顔を見せてくれなければ、他にそれを求めるしかない。
あなたはそうして今も、無駄な苦労というものをしてはいまいか。
現在の苦労を、苦労と思いながらしているようでは、決して報われはすまい。
あなたが今、懸命に育てているのが、我が子でも自分自身でも、その苦労を歓びに塗り替えることが出来ないものならば、その方法は間違っていると言える。
この石は、あなたに未来を垣間見せてくれる。
今の苦労が正しいものなら素晴らしい未来を、もしそうでないなら今一度、見直すチャンスを与えてくれるのだ。