箱根に出ることがすべてじゃない
〜これはフィクションです〜
いえ、私にとっては箱根に出ることが人生のすべてでした。私を信じてくれる先生のために、そのために自分のすべてをかけて頑張りました。
しかし、本当に10mも走れなくなって、苦しくて、悔しくて、やめたくはないけど、やめざるを得ないことになりました。
自分が走るのをやめたところで、誰も困らないし、誰にも迷惑をかけるわけでもない、そのようにも思いました。
練習にも出られず、治療通い。紹介でオリンピックのドクターにもみてもらうことできましたが、何も変わらない状況。もう、万策も尽き果てました。
そんなある日、キャンパスでふとチームメイトに出くわしました。
「なんだよ、戻ってこいよ」
本当に痛くて走れない、走ると激痛が走る、そしてその恐怖。果たして自分が戻ったところで何ができるんだ、という気持ちがすべて吹き飛び、その日のうちにコーチに電話をかけていました。
「ちゃんとやれんのか!みてるからな!」
当時は恐怖でしかなかったのですが、今となれば最大の激励でした。こんなに走れない自分でも見ていてくれるなんて。
部へ復帰したものの、箱根に出られる可能性はゼロです。映画や漫画のように甘くはありません。少なくとも私には。
勢い余って復帰したものの、走れないことには変わりはありません。何とか痛くない足のつき方を探すものの、次は違うところを疲労骨折。しかし、それでも足は動くので、痛みが強い日はジョグで何とかつないでいました。
そして、いよいよ箱根のレギュラー争いが部内で熾烈を極める頃、ふと仲間から聞かれました。
「最後のレースどうする?俺と一緒に出ない?」
「んじゃ、お願いするよ」
そんな感じだったと思います。ただひたすら頑張ってきて、あっけない最後。というよりも、実はこのときすでに一部の後輩の身体を揉んだりし始めていました。
「先輩に揉んでもらうと調子いいんすよね」
なんて言葉に踊らされ、いっぱい揉まされました。気がついたら何人も。大学が休みになると、1日に何人も。それから何年も寝ずに勉強して、気がついたらトレーナーになっていました(なので、選手として区切りをつけた記憶がない状態です)。
そんなあの日から10余年が経ち、各メディアにもご紹介頂いたりもするようになりました。本当にありがたいです。
それまで「駒澤大学陸上競技部」というのを出しては来なかったのですが、それもまた仲間が「出せよ」と言ってくれたり、先輩も「駅伝に出ることだけがすべてじゃないよ」と言ってくださいました。
駅伝に出られなかったから、駅伝に出た選手よりも頑張らないと仲間として認めてもらえない、そんな意地を張って生きてきた私にとって、すごく優しくも温かい言葉に、溢れるものがありました。
「お前なんか駅伝に出てないだろ」と言われるよりもむしろ、その重みを感じずにはいられません。
つまりは、駅伝は襷(たすき)だけではなく思いを、そして行動を繋いでいくことなのだと気がつかされました。
ということで、プロトレーナーとして活動している毎日、改めてみなさんが夢を叶えること、希望が持てること、喜びと楽しさ溢れる日々を過ごされますようにと願っています。
最後までお読み下さり、ありがとうございました。