日本初のジェット戦闘機「橘花」
■プロペラ機からジェット機へ
1945年8月7日、旧海軍の戦闘機、橘花が初飛行。
飛行機はプロペラを回して推進力を得ていましたが、スピードを追求する中で、既存のエンジンでは限界に達しつつありました。
それを克服するために用いられるようになったのが、ジェットエンジンです。
橘花は国産初のジェット機となります。
これは航空ガソリンを使うレシプロエンジン機
と違い、いわゆる灯油のような質の悪い燃料が使え、しかも高い性能が得られるこから、開発の第一優先に上げられました。
よくプロペラ機とレシプロ機を区別なく使っている人がいますが、結論から言うとプロペラ機とレシプロ機は全く別の機体となります。
レシプロ・エンジンとは、ピストンがシリンダー内を往復する形式のエンジンを指しています
プロペラは見るとすぐに分かると思いますが、エンジンの回転軸に取り付けられた複数枚の羽で構成される、一種の風車です。
扇風機と同じように、回転することで気流を生み出し、その反作用で航空機は進みます。
プロペラ機は、プロペラが生み出す気流で推進する航空機のことを指します。
■「橘花」開発までの苦難
昭和19年9月、海軍航空技術廠では第二次世界大戦末期にドイツ空軍で運用された、世界初の実戦配備、および実戦を行ったメッサーシュミットMe262ジェット戦闘機の資料を潜水艦で持ちかえろうとしますが、日本海軍潜水艦はバシー海峡でアメリカ海軍潜水艦の攻撃を受け沈没。
潜水艦が撃沈されてしまったため、シンガポールで零式輸送機に乗り換えて帰国した。
巌谷中佐が持ち出したごく一部の資料を除いて失われてしまい、肝心な機体部分やエンジンの心臓部分の設計図が存在せず、結果的に大部分が日本独自の開発となってしまいました。
製造は日本の航空機・航空エンジンメーカー中島飛行機に開発指示を出しました。
結果として、橘花は一回り小型化されており、材料も戦時下で多くが代替素材を用いざるを得ず、それでいて生産容易な構造で、また狭い防空壕に格納のため両翼を折り畳み式にするなど、全くの新規設計にしました。
大量に実戦投入され一世を風靡した「零戦」にくらべ、性能面では上回っていないものの、シンプルな設計で約3倍の生産効率を実現できたといいます。
また 橘花には当初推力320kgのネ12Bが搭載される予定でしたが1945年4月、より高推力のネ20に変更されました。
ネ20は日本初の実用したターボジェットエンジンでした。
ちなみに頭記号の「ネ」とは「燃焼ロケット」の略です。
設計完了からわずか半年で、試作機が出来上がり、8月7日に初飛行をしました。
試験飛行は短時間ながらに成功をし、戦闘機の量産と実戦投入へ移行しようとしましたがその8日後に日本は終戦を迎えることとなります。
たった11分間の飛行ではありましたが、この日はわが国日本のジェット機
第1号・橘花が初めて大空を飛んだ日となりました。
その時のパイロットは海軍横須賀航空隊実験担当の高岡迪少佐です。
初飛行の1号機は8月11日の2回目のテスト飛行では離陸用補助ロケットの使用を試みたが、
離陸に失敗し浅瀬に突っ込んで破損してしまいました。
続く2号機は完成間近で終戦を迎えてしまいます。
■アメリカからの評価
実戦配備には間に合わなかった戦闘機「橘花」とジェットエンジン「ネ20」に対して米国は、一定の評価を下しています。45年の米海軍の報告書は、こう締めくくっています。
「ネ―20はなかなか良い。BMW003Aは小型のターボジェットで最良のものだろうが、ネ―20を搭載した日本の飛行杭は軽量構造ゆえに、003Aエンジンを搭載したドイツのMe262と同等の性能をもつことに注目されねばならない」
現在はアメリカのスミソニアン航空宇宙博物館で復元保存されています。
ただしエンジンナセル形状は原型と大きく異なっており、残念です。