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Chapter 2教えることで学ぶ寺小屋式英語塾「密塾」創設!23人英語検定全員合格!


教えることで学ぶ密塾創設!

オーストラリアから帰国後すぐに僕はまず、高校のゴルフ部の後輩、そして近所に住む後輩を中心に声をかけました。「世界で通用する英語力とは、相手を論破する力だ!教科書の英語を学んでいるだけでは世界で戦えない!
留学で学んだ「英語で自己表現する重要性」を周りに伝えようと、このような強い思いを胸に塾の設立を決意したわけですが、この思いをそのまま後輩にぶつけて勧誘したところで、塾生になってくれるはずもありません。暑苦しすぎますし、何より、怪しすぎます。そこで僕は無難に、「英語を教え合い、学び合う場を一緒につくろう」と声をかけて勧誘していました。

幸い僕は、高校1年のときに英検2級(あと1点で不合格のギリギリ合格)を取得していました。山梨の片田舎にある高校に通いながら、高1にして英検2級にたまたま合格した僕は、まるで大きな快挙を達成したかのように周りから称えられました。そのため僕の「英語を教え合い、学び合おう」という勧誘は、後輩の保護者たちからも「高1で英検2級をとった幸樹くんが教えてくれるのなら……」と、好意的に受け入れられました。

「英単語攻略」に力を入れる

入塾希望者はちらほらと集まり始めました。僕はいよいよ、母親が手芸教室を運営していた教室を借り、教え合い学び合う塾の開校に踏み切ります。塾の名前は、秘密基地のような学びの空間という意味を込めて「密塾(ひそかじゅく)」と名付けました。「世界で通用する英語力とは、相手を論破する力だ!」なんて意気込んでいながら、実際にみんなに教え始めたのは「英検の受かり方」。下は小学校4年生から、上は高校1年生までの塾生がみんな、自分の目標とする級に合格できるよう、それぞれのレベルに合わせて教えていきました。とくに力を入れたのが、英検各級の最初に必ず出てくる単語問題。ここは、事前にしっかり準備をしておけば、点を落とすことがないからです。堅苦しい一方的に知識を詰め込む「英検対策」ではなく、実際は「お菓子を食べながら車座となり、対話しながら楽しく教え合う」というアットホームな雰囲気の授業が評判となり、生徒数は23人に増えました。そしてこの23人が、のちに小さな「奇跡」を起こすことになります。

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ラテン語とギリシャ語で英単語を芋づる式に覚える

英単語を覚えられない生徒に対し、何をどのように教えればよいのか。「密塾」初期の大きな課題でした。教え方を模索しながら、単語帳とにらめっこの日々が続きます。そんなある日、僕の中にひとつの疑問が生まれました。
「『telephone』と『television』の頭に共通してつく『tele』って、いったい何なんだろう……?」僕は、担任の堀内先生にこの疑問を投げかけました。先生は僕を職員室に連れていくと、本棚にあるジーニアス英語辞典を取り出し、「telephone」のページを開いて見せてくれました。発音記号の下に「原義」というセクションがあり、先生はそこを指差して説明してくれます。「英語は、ラテン語とギリシャ語でできている。そして『tele』には接頭語で『遠い』という意味があるんだ」なるほど。漢字の偏やつくりと同じように、英単語も分解して意味を味わいながら覚えればよいのだ―。僕はさっそくその日の放課後、書店に足を運び、ラテン語とギリシャ語の辞書を購入。接頭辞、接尾辞をノートにまとめ、「密塾」での授業に取り入れました。授業では、単に「日本語訳」を教えるのではなく、語源やストーリーを加え解説し、英単語を定着させていきました。

指定教材はTOEICでる順英単語

全国模試で偏差値80、全国8位達成!

「密塾」で必死に英語を教え、予習・復習を繰り返しているうちに、いつの間にか自分の英語力が格段に高まっている―僕がその事実に気づいたのは、ある全国模試の返却日です。「このクラスに偏差値80をとった人がいます」堀内先生がこう告げると、クラス中にどよめきが起こりました。「これはもしや、自分のことかな……?」と思ったら案の定、先生は僕の名前を呼びました。クラス中から喝采を浴び、恥ずかしいやら誇らしいやら、不思議な気持ちを覚えました。高校1年のときに英検2級に合格していたとはいえ、実はそれまで、英語の全国偏差値は平均50後半程度でした。「密塾」での奮闘で、僕の英語力がいかに伸びたかがおわかりいただけるでしょう。「教えること」こそが、最良の「学び」なのだ。僕は確信し、「密塾」の生徒たちとの教え合いにより力を注ぐことになります。

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最初の塾生23名が英語検定に全員合格

「教えること」こそが、最良の「学び」。自身の偏差値が爆発的に上がったことで確信を得た僕は、自分自身が教えるだけでなく、「密塾」の生徒にも積極的に、人に教えることを促すようになります。ひとつの単元を理解した生徒が、次の生徒に指導する。「教え」の連鎖によって、「密塾」はどんどん活発になり、連帯感も高まっていきました。高校3年生のときのことです。「みんなで一斉に、同じ回の英検を受けよう」誰彼ともなく言い出したこの発案に、「密塾」の全員が賛同。受験する級は違えど、全員が「ひとつの目標」に向かって突き進むことになりました。決して、僕が「やらせた」わけではありません。生徒たちが自発的に生み出したムーブメントに、僕は嬉しさと頼もしさを感じました。そして結果は、全員合格!みんなそれぞれにお菓子やジュースを持ち寄り、大宴会を開きました。なかでも嬉しかったのは、「塾生第1号」である、当時高校2年生だった河西真理(かさい・まさみち)さんの2級合格です。

教えることで学ぶ河西真理

英語の授業は「落書きの時間」だった男が一変

河西さんは中学のゴルフ部時代から、僕を「兄貴分」として慕ってくれている後輩です。母親を早くに亡くしていたこともあり、父親が仕事を終えて夜遅くに帰ってくるまでは、常に僕の家に上がり込んで、一緒に遊んだり、食事をしたりしていました。もともと、英語の成績はからっきし。なにせ英語の教科書は落書きだらけでした。英語の授業で上達するのは、ポケモンとドラえもんとアンパンマンの絵ばかりです。そんな彼ですが、僕がオーストラリアから帰国し、「英語塾を開くぞ!河西、生徒第1号になれ」と誘うと、二つ返事でOKをくれました。しかし忘れてはいけないことがあります。それは彼がゴルフ部の国体選手に選ばれ、僕と同様本気でプロゴルファーを目指していたことです。そんな彼が英語学習に目覚め、大学進学後に英語検定1級合格、TOEIC985点、そして在アメリカ合衆国日本国大使館外務省ロシアの日本国総領事館で働き世界中で活躍するようになるとは誰も予想していませんでした。

河西真理の落書きだらけの教科書

街中に認知されていく「密塾」

「密塾」の「塾生23人全員、英検一斉合格」は瞬く間に街の評判となり、入塾希望者が殺到。23人だった塾生は、一気に100人以上の大所帯となりました。一方で、高校3年生の僕には、自分自身の受験と卒業が迫っていました。進学は、「英語の青山」で知られる青山学院大学を志望。「密塾」を続けるには、後継者を立てなければなりません。僕が白羽の矢を立てたのはもちろん、「密塾」で急成長を遂げた河西さんです。ちょうど、ある塾生の保護者が営む美容院の会議室を無料で貸していただけることになり、河西さんをリーダーとする「密塾第2校」を開校することになりました。塾生を分散させて「教え合い」の効率が落ちるのを防ぐとともに、後継者も育つ。理想的なかたちで、「密塾」はさらに拡大していきます。

学校の先生にバレて呼び出される

ちょうど、そのころのことです。僕は英語科長の勝村先生に突然、家庭科室に呼び出されました。どうやら僕が、「お金をとって塾を開いている」と噂になったようです。それは事実でした。当初は無料で開催していた「密塾」。しかし教材の作成・コピー、それを挟むファイル、資料本の配布などをすべて自分のお小遣いでまかなえていた初期とは違い、生徒数は激増。そこで生徒にも負担をお願いすべく、「1回500円」のお金をいただくことにしていたのです。ただ、校則では「アルバイト厳禁」。僕は一切、やましいことをしているつもりはなかったのですが、お金をいただいているのは事実ですから、何かしらのお叱りは受けるのだろうなと考えていました。英語科長のもとにいくと、何の前置きもなく、彼女は僕に問いかけました。「なんかやってるの?」漠然とした質問ですが、聞いているのは確実に「密塾」のことでしょう。僕は「英語を教えて、お金をいただいています」と、自分から切り出しました。英語科長から返ってきたのは、意外な言葉でした。「いいじゃん」叱られると思っていた僕は呆気にとられるとともに、一気に気持ちが軽くなりました。そして僕が確信している、「『教えること』こそが、最良の『学び』」という想いを、英語科長に思いっきり語りました。「それは嶋津くんの哲学だね」僕の想いを初めて認めてくださった英語科長のこの言葉を、僕は生涯、忘れることはありません。高校3年冬。僕は青山学院大学文学部英米文学科に合格し、上京が決まります。「言語学を勉強し、日本の英語教育を自分の手で変えよう」。僕は新たな決意に燃えていました。

希望に満ちあふれていた「第3校」の開校

卒業後は、平日の「密塾」の運営を「第2校」の河西さんに任せ、僕は毎週金・土・日に帰省し、「初代密塾」の運営を行う。「密塾」で巻き起こる教え合いの輪は、僕が上京してからも、なんとか途切れずにつなぐことができていました。新生活が落ち着いてきた、大学1年の9月。僕が「新天地でも密塾をつくりたい」と考え始めるのは、もはや自然の流れでしょう。僕は大学のある神奈川県相模原市で、「密塾第3校」の開校に取りかかります。山梨でうまく広まった「密塾」。同じことをやれば、相模原の地でもきっとうまくいく。僕は信じていました。僕は両親と親族から200万円の借金をし、駅前にある20畳ほどの怪しいオフィスビルの一室を借りました。同じ山梨県出身で青山学院大学の同期となった勝村智樹(後に高校の時の勝村先生の甥っ子だと知る)に協力を仰ぎ、2人でコツコツと開校の準備を進めていきました。ここから、新たな「密塾」のムーブメントが始まる……はずでした。

生徒がまったく集まらない


しかし現実は悲惨でした。どれだけ熱心に勧誘しても、入塾してくれたのはたった1人だけ。なんとかその1人に友だちを連れてきてもらい、塾生は2人になりましたが、そこから塾生が増えることがないまま、3カ月続きました。しかもその2人もドタキャンが多く、誰もいない教室で勝村智樹と虚しい時間を過ごすことも多くありました。物件の家賃は20万円。赤字の垂れ流しが続きます。

僕は「なんとかしなければ」と、2万枚のビラを刷って駅前や学校前で配りますが、掛かってくるのはイタズラ電話ばかりで、密塾は宗教団体とまで言われる始末。ならば「街のお店にビラを置いてもらおう」と頼み込むも、「ウチの店とお前は何の関係もないだろ!なんでそんなビラを置かなければならないんだ!」と怒鳴られ続ける。地元山梨では無償で場所を提供してくれたり、進んで密塾のことを紹介してくれるのに、なんで誰も理解してくれないんだ。その当時は生徒を増やすことで我を忘れてがむしゃらになっていたのです。とにかく、塾生が増えないことには、お金が入ってこない。僕はもやしを主食とする生活が続き、寝ても寝付けず、夜中に起き出しポスティングをしたりと、荒すさんだ日々を送ることになります。

思い出した「密塾」の強み

なぜ、山梨では「入塾待ち」の人気を誇る「密塾」が、相模原では受け入れられないのか。僕は考えました。そして僕は、山梨で成功した「密塾」の「根本」を洗い出すことにしました。

中高生はどのような思いで「密塾」に来てくれるのか。
大手予備校には真似できない「密塾」の特異性は何か。

考えに考えて、ようやく気づきました。「密塾」の存在意義は、「中高生が普段出会うことのないロールモデルに出会える環境」「単に英語を勉強するのではない、ある目的を持って英語を話さなければならない環境」にあるのだ、と。僕は大学にいる留学生や、その友だちの日本に遊びに来る外国人に声をかけて「密塾」に来てもらい、異文化交流イベントを頻繁に開催しました。同時に、当時隆盛を誇っていたコミュニティサイト「mixi」で「英語学習」コミュニティをつくり、約5000人の学生を集め、英単語の語源を教えるなどして認知度を高めていきました。「密塾第3校」の塾生は徐々に、しかし確実に増え続けていきます。

もう一度「世界」へ

「密塾第3校」は、当初の低迷が嘘のように、軌道に乗り始め続々と生徒数が増えていきました。神奈川だけでなく、東京・千葉・埼玉、そして静岡から新幹線を使って通う生徒もいました。長期休暇には、山梨の2校とともに「3校舎合同合宿」も開催。やがて「密塾」の生徒数は3校舎合わせて500人を超え、幼稚園の年長から大人までがともに教え合い、学び合う不思議なコミュニティへとさらに成長していきます。中学生で英検準1級に合格したり、高校生で英検1級に合格したりする猛者も登場。生徒たちは東京大学をはじめ、国内外の一流大学にどんどん合格していくようになりました。僕は嬉しさを感じる半面、「自分はこのままでいいのか」という葛藤を抱くようになります。

イングリッシュキャンプ

17歳から英語を教え始め、これまでに通算700人以上の生徒を指導し、3つの校舎を運営してきました。その中で、自分の体力と英語力、そして会社を経営し人を動かす力に限界を感じていたのです。特に経営するうえで必須となるお金に関する知識がなく、お金で人を動かすということが全くできませんでした。

週7日で授業を担当する

僕は文字通り、週7日働き、365日、朝から晩まで生徒のことを考えていました。1週間の間に山梨、神奈川、東京を夜中に車移動し、パーキングエリアで仮眠を取り、車の中で教材を作り、塾で指導する日々。その上で、自分より社会経験のある年上の社員の生活を保障しなければならない責任感も重くのしかかります。

救急車で運ばれるほどの疲労

当時、大学3年生。自分は新しいことが何一つできず、現状の生活を回すのにいっぱいいっぱいな一方で、生徒たちは、自分が知っているより広く、大きな世界へと飛び出していく。僕は「自分の微々たる海外経験では、これからの生徒たちのロールモデルにはなれない」と悟ります。これからも堂々と生徒の前に立ち、「教え合い」の場をつくり続けるためには、自分自身が「世界」で勝負するしかない。僕は、本格的な海外留学に出ようと決めました。


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