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Chapter 4 遺伝子に刻みつけられるほど熱い経験を全国に!ロンドン貧乏生活からタクトピア始動の瞬間


運命の出会い。「タクトピア」設立

シェフィールド大学でのケンブリッジCELTAを終えて日本に一時帰国した僕は、先進的なICT教育を実践する英語教員にお誘いいただき、電通イノベーションラボにおける「英語教育の集い」に、起業家枠でお話をする機会をいただきました。これは「民間企業と学校が組んでイノベーションを起こそう」という試みで、僕を含めた起業家2人と、英語の先生方10人ほどが集まり、最先端の英語教育を議論する場となりました。参加者の中で最年少の僕が先鋒を務め、これまでの英語教育の実践について話しました。続いて話したのが、もうひとりの若手起業家である、ハバタク株式会社代表の長井悠さん。東京大学に入学後、東京大学大学院まではひたすら音楽家バッハの研究をし、その後IBMでコンサルタントとして働いた後、教育ベンチャーを立ち上げた…という稀有な経歴を語ります。そこでハバタク株式会社の「共創的な学び」を通して世界に羽ばたく冒険者を増やすという壮大なミッションに圧倒された瞬間から新しい教育プロジェクトが動き出しました。

日を改め後日、長井さんと話をする機会をいただいたのです。案の定、僕が長年抱えてきた「日本の英語教育に対する問題意識」について共感を得て意気投合。出会った初日の熱量そのままに、僕がイギリスに戻ってからもオンラインで議論を重ねること約半年。ハバタク株式会社のグローバル教育部門の子会社として、新しく世界に羽ばたく若者を応援する教育ベンチャー「タクトピア」が誕生することになりました。世界の多様性に触れ、自身の創造性を存分に発揮できる環境で成長することこそが、この世界を(身の回りのことからちょっとずつ)良くする21世紀型のリーダーであると定義し、動き出しました。

圧倒的原体験をアジアの全ての若者に

代表を務める長井悠が大学院時代に音楽家バッハの研究をしていたこともあり、社名にはオーケストラの指揮棒を意味するTakt (タクト)、理想郷という意味のユートピアの接尾辞をとり、topia(トピア)をかけ合わせ「TAKTOPIA(タクトピア)」と命名されました。ここでの指揮棒(タクト)は「人生の指揮を自分でとっていこう」という比喩的な意味で使われており、指揮棒(タクト)を持つ人々にとって理想的な学びの世界を作っていく、という僕たちの願いが込められています。ロゴには、指揮棒(タクト)を持って明日へふみだしていく若者と、世界のさまざまな場所で持っているであろう学びのテーマをデザインしました。

ロンドン大学教育研究所で院生生活再スタート

CELTAを取得後、僕は世界大学ランキングの教育分野でハーバード大学やオックスフォード大学を抑えて1位を獲得したロンドン大学教育研究所(University College London, Institute of Education)に入学することにしました。ロンドン大学は1826年設立。伝統的に特権階級が優遇されていたオックスフォード大学やケンブリッジ大学とは違い、人種、宗教、政治的信条に関わりなく広く学問への門戸を開くことを目的に設立された多様性のある大学です。卒業生にはマハトマ・ガンジーやアレキサンダー・グラハム・ベルなど、そうそうたる名前が並びます。伊藤博文、夏目漱石らの留学先としても有名です。

150周年記念でUCLを訪問する安倍元総理

大学のオリエンテーションでは世界中から教育に志を持つ人々が集まっていました。僕が在籍した応用言語学部には80名程の学生がいましたが、日本人は僕と日本から来た高校の先生の2名のみ。クラスメイトの国籍も多種多様であり、大学の学部ではケンブリッジ大学やコロンビア大学から来る学生や2つ目の修士課程を取得しに来た方、20年以上の英語教育歴の方まで体験したことのない多様な環境のもとで大学院生活は始まりました。

こちらもご多分に漏れず、授業は過酷なものでした。1コマみっちり3時間。毎日、読み終わらないレベルのリーディング課題が出され、1学期間に5000語のエッセイを4本書かなければなりません。修士論文は1万5000語、プレゼンやディスカッションの準備などもあり、1日14時間ほど図書館に閉じこもるのが普通の生活になっていきました。さらに学生だけでなく二足の草鞋でタクトピアで働くこととなったので夜の12時まで勉強してイギリス時間の夜12時(日本の朝9時)から日次ミーティングが始まった。朝5時まで仕事をして帰宅し、数時間後には図書館で課題をこなす日々が続きます。

心理言語学授業で圧倒的劣等感

Language Development(言語発達)という名の心理言語学授業には日本人1人、中国人3人で9割以上がヨーロッパ出身。終始経験値の差と劣等感を感じながら、議論に参加してきました。この授業の特徴は授業内に論文をグループで読まされるという点です。指定された論文を読む宿題がなく、授業中に課される論文を読めるようにしておくのが宿題です。

授業が始まると30分程度の講義の後、グループで議論するトピックが与えられます。今日はDo children with SSLD notice a repair?について議論し、自論を持つように仕向けられます。研究論文を読む前に大量に議論するので、論文を読んだ時に批判的に物事を考えることができます。議論の後に論文が配られて20分で読むように指示されてグループで議論します。読むスピードが遅かったり批判的な考えを持ってないと議論に参加できません。議論をしている間に教授が観察してさらに考えさせるための質問をしてきます。さらに議論は難しくなり、後半は全然ついていけません。最後に教授が論文の結論と学生の意見をまとめて今後の研究示唆を提示します。教授が前に立って話す時間より学生が話す時間の方が圧倒的に長いのです。いつも隣に座っていたトルコの文科省(政府)で働いている方から「君はまだ若いから分からなくて当然だよ」と励まされてしまいました。言語障害がある生徒に教えた経験がなく、理論のみを学ぶのは非常に苦痛でした。やはり教育は理論と実践が基本となるということを実感しました。そして最後に5000字の課題を頂きました。

16人部屋のホステルで過ごす3週間

授業の過酷さに加えて悲惨なことにロンドンの物価は高騰していました。1年で終えるはずのイギリス生活も3年目、塾の売却で集めた貯金は底をつきかけています。当時ロンドンの為替レートは1ポンド190円近くまで上がりロンドンの中心地の最も安い賃料が高騰し、多くの学生寮の値上げを余儀なくされていたのです。世界中を旅する若者からホームレスまで、大学の中では出会うことのない人たちと貧乏生活をしながら暮らしながら、16人部屋のホステルを転々とする生活が続きます。日中は大学の授業と予習復習、そしてイギリス時間の夜中の12時からタクトピアの日次ミーティングが始まります。本当にほぼ、図書館に住み込んでいるかのような日々。

ネズミ付き家賃14万円のアパートでの生活

ようやく見つけた4畳のオンボロアパート、キッチンとトイレ共用の家賃14万のアパートを発見し、8人の国籍の違う20-30代の若者での共同生活、見た目はお化け屋敷で部屋にはネズミが出入りする4畳半セキュリティーのない環境での生活が始まりました。

4畳の部屋にはネズミの糞が落ちていて夜中になると活動を始めます。壁も薄く隣の部屋にいるフランス人の音楽が一晩中鳴り響きます。ベットとスーツケースで身動きが取れない部屋でただ1人、朝になるのを待ちます。しかしこの過酷な毎日の中で僕は、日本の英語教育にとってインパクトのあるプロジェクトを虎視眈々と準備していきました。

ロンドン大学で仲間を探す日々

まずは仲間探しから。ロンドン大学のジャパンソサエティーに協力を仰ぎ、大学から1つの教室を借りて、説明会という名の仲間探しを始めました。初回の説明会には30名ほどのロンドン大学生が集まってくれました。僕はそこで自分の想いをぶつけます。密塾の話から日本の英語教育の課題、英語力以外のこれから求められるスキル、僕が日本で実現したい理想の教育プログラム「白熱イングリッシュキャンプ」の構想も紹介しました。

続々と集う教育を変えたいロンドン大学生

遺伝子に刻みつけられるほど熱い経験を全国に!という想いに共感したロンドン大学生が続々と集まってきます。議論のほとんどはどのような人生ストーリーがあり、どのような学びを届けたいのか?授業が終わってから図書館に集まり、レッスンプランとスライドを作成してもらい、それらにフィードバックを与えていきます。ここでもCELTAでの学びとこれまでのイングリッシュキャンプの実践が活きてきます。さらにハーバード大学のジャパンソサエティーと連携して、アメリカからも5名のハーバード大学生が参加してくれることになりました。そこからオンラインでの議論と衝突を繰り返し、白熱イングリッシュキャンプの完成形に近づいていきました。

「初心」を思い出させてくれた成田空港

もともと「1年」の予定が、進路変更をしたことにより「3年」にもなってし
まった留学生活をなんとか無事に終え、僕は帰国の途についていました。
成田空港に降り立つと、屈辱のオーストラリア短期留学から戻ってきたときの「使命感」が蘇ります。しかし今回は、あの時とは違い、やるべきことが明確で、未来のビジョンがはっきりと見えていました。まずは日本の中高生に、世界へ出て挑戦することの重要性を伝えたい。そして「英語の必要性」と「学びの醍醐味」を体感してもらいたい。自分の意思で人生を
切り拓いてもらいたい。自分が身につけた専門性を活かして何ができるのか。どのようなチームをつくり、どのように補完し合えばよいのか。日本橋にある「隠れ家」的な小さなオフィスで、僕は仲間とともに日々、妄想を膨らませていきました。


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