幼年期の終わり
充満するタバコの煙、薄暗い店内に所狭しと並ぶアーケード筐体の光、飛び交う怒号とボタンを叩く音。至る所に貼った蜘蛛の巣、消え掛けたボロボロのネオン灯。
僕の中学時代の思い出は、そんな光景で埋め尽くされている。
その日、僕は生徒会の先輩に連れられ、人生で初めて校則を破った。学校帰りに寄った武蔵小金井の小さなゲーセンで、人生で初めて筐体に100円を入れ、人生で初めてアーケードコントローラーを握った。
真っ暗な店内と、筐体の液晶が放つ光のコントラスト。ヤニで黄色くなった埃まみれの内装。筐体に座っているのは昼間からゲーセンに来るようなダメな大人ばかり。
まるで、ずっと夜が続いているような空間だった。人々が忙しなく働く昼の世界から、自動ドア一枚で隔たれた異空間。ゲーセンの中だけ時間が止まっているようだった。
煙草を咥えながら、慣れた手付きでレバーを操作するスーツ姿の社会人の隣の筐体に腰掛ける。鼻の奥に滲みるタールの香りでクラクラしながら、生まれて初めてのアーケードゲームをプレイする。
夜の世界への第一歩。大人の世界を少し覗き見したようで、凄く胸が躍ったことをよく覚えている。
今思うと、ゲーセンなんて大人の世界でもなんでもなくて、むしろ上手に大人になれなかったダメな人たちの溜まり場だったりするのだが、当時の僕はそのアングラさに熱中していった。
今年の1月、「サントロペ池袋」というゲーセンが閉店した。
サンシャイン通りに面した大型店舗で、池袋の顔とも呼ぶべきゲーセンだった。池袋に来るたびに立ち寄っていたゲーセンで、声優の植田佳奈氏をここで見掛けたこともある。
コロナ禍による経営不振が直接的な死因だったようだ。僕が中学生の頃からゲーセンは衰退の一途を辿っていたが、池袋の老舗大型ゲーセン閉店のニュースは、その衰退がもはや致命的であることを示唆している。正直に言うと、凄く悲しい。
こんなこと大人が言うものではないが、ゲーセンでたくさんの思い出ができた。
その中でも、格闘ゲームとの出会いは特に自分の中でも大きい。
今では『e-sports』だなんて大層な横文字で呼称され、その中でも花形扱いされている格闘ゲームだが、元々は紫煙燻るゲームセンターの薄暗い店内で産声を上げた、アンダーグラウンドのカルチャーだった。
向かい合わせの筐体にお互いが座り、それぞれが100円玉を筐体に投入して対戦開始。負けた方はその場で100円失いゲーム終了、勝った者のみがゲームを続けることができる小さな小さなマネーマッチ。
中学2年生の時、武蔵小金井の小さなゲーセンで、僕は格闘ゲームと出会った。初めて触るアーケードコントローラーは、文字通り右も左も分からなくて、凄くやきもきしたのを覚えている。
昔の格闘ゲームは、誰かが向かいの筐体に100円を入れたら強制的に対戦が始まる仕組みだったので、練習もままならないまま実戦に放り出され、何度も負けて100円玉をドブに捨てた。
初めて対人戦で勝てた時の興奮は忘れるはずもない。過去の敗戦や悔しさが勝利によって一気に報われていく感覚、対戦相手の100円をドブに捨てさせた優越感。自分自身、負けた時の悔しさを肌身で体感していたからこそ、相手にその屈辱を味あわせた支配感に、体が火照った。
格闘ゲームを通じて、色んな出会いがあった。
ゲームセンターでしか出会えない、「ダメな大人」たちとの邂逅。格闘ゲームをやっている内に、そんな大人達とだんだん話すようになっていた。
ゲーセンで生まれる人間関係に年齢の垣根はない。彼らの中には10歳以上歳の離れた大人も居たが、当時中学生だった僕に対しても格ゲー仲間としてフラットに接してくれていた。元々物好きしかいない世界、そこには「同じゲームを好きでいる」という緩やかで、それでいて確かな連帯のみがあった。
そう言えば、人生で初めて煙草を吸ったのも中学生の時だった。
吉祥寺のゲームセンターで、格ゲー仲間のお兄さんに冗談で「吸ってみる?」と言われた煙草を受け取ったことがきっかけだ。
初めて吸った煙草はワケが分からなかった。全身がピリピリと痺れるような、脳味噌の中身を直接揺すられているような。とにかく言葉では言い表す事のできない情報量に、ただただ驚いていることしかできなかった。
大人の真似をして、灰皿に向かって灰を落とす。
というより、煙草を指で叩く仕草が灰を落とすためだということを、その時初めて理解した。
当然吸い始めたばかりの煙草から灰なんて落ちるはずもなく、その煙草は自分の手元で小さく跳ねるだけで。
それでも、その仕草を自分がしていることが、たまらなく嬉しかった。自分が「ゲームセンターに居る大人たち」の仲間に入れたみたいで、僕が憧れたゲームセンターの景色の、その一部になれたみたいで。
最近、受動喫煙防止法が施行されてから、多くのゲーセンが禁煙になった。ゲーセンから、煙草の匂いがしなくなった。
僕はそのことが少し悲しい。僕が中学生の頃憧れたゲームセンターはいつだって薄暗くて、煙草臭くて、やかましかった。ワケの分からないレトロゲームが置いてあって、やつれ切った顔の大人達が煙草を吸いながら、昼も夜もなくそれらに没頭していた。
ハタから見ればただただ治安の悪い低所得者の溜まり場にしか見えないが、そこは間違いなく日常の喧騒から切り離されていて、僕にとっては紛うこと無き異世界だった。
皆何かから逃げるように、そして何かに縋るように筐体に座って、穴を穿たんばかりに画面を凝視している。
あまりにも退廃的で、それでいて純粋なその空間が僕は大好きだった。
日常から逃げているのはお前だけではないと、そんな安心感をくれる場所が、僕にとってのゲームセンターだった。
煙草を吸うようになってから、初めてゲーセンに行った日のことを覚えている。
相変わらずの喧騒、相変わらずの景色。メダルゲームの筐体にもう何時間も座っているであろう初老の男が、底が見えなくなる吸い殻のたまった灰皿で、先ほどまで咥えていた煙草を揉み消す。相変わらずのダメな大人加減。
中学生の時から時間が進んでいないんじゃないかと錯覚するほど、見覚えのある光景が広がっていた。
昔好きだった格闘ゲームの筐体に座り、煙草を咥える。中学生で初めて煙草を吸った時に比べれば、随分上手に火が付けられるようになった。
もう何年もそのゲームでは遊んでいないはずなのに、自分でも驚くほどコマンドの入力はスムーズで、通い始めた頃はあれだけ覚束なかったアーケードコントローラーでの操作も、もうスッカリ身体に染み付いている。
煙を深く吸い込み、筐体に吹き掛ける。
昔あれだけ憧れた煙草を吸っているのに、結局大人になれたような気は全然しなくて、ゲーセンの景色と同じく、何も変わっていない自分が滑稽に思えた。
その日はなんだか虚しくなって、結局すぐに帰ってしまった。ゲーセンに入る前は随分ワクワクしたものだが、蓋を開けてみれば大した感動もなく、むしろ進歩しない自分の姿を、改めて思い知らされるだけだった。
しかし、今思い返すと、変わらないでいられることも幸せなことだと思わされる。
ゲーセンに通い始めて早10年。中学を卒業して、高校を卒業して、大学を卒業して、社会人になった今でも、会社帰りに時々立ち寄っている。
なんともみすぼらしい25歳の姿だ。中学生の頃の自分がダメな大人だと思っていた人々と同じ年齢になって、ダメな大人として未だに僕はゲーセンに通っている。
もう店内で煙草は吸えなくなってしまい、ゲーセンの景色も随分と様変わりしたが、それでもあの空間のやかましさは相変わらずだ。今はその変わらなさに、凄く救われる時がある。
コロナ禍を受けて、ゲームセンターというカルチャーはいよいよ滅ぶ。これから、もっとたくさんのゲーセンが閉店するだろう。時間が止まっていたように思えたあの空間も、実は着々と滅びに向かって進んでいたのだ。
僕はその滅び最後まで見届けていようと思う。ゲームセンターがなくなる頃には、自分もそろそろダメな大人をやめれているだろうか。
※本作品は自分のブログに載せた文章を#テレビブロスマイベスト2021というコンテスト向けに加筆・修正したものです。
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