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ノイズの名盤? ザ・ゲロゲリゲゲゲ ">(decrescendo)"

ではでは、ここで早速私が書き溜めていたメモを露出していこうではないか!(これ一つだけ)

と、いうことで、初回から音楽の話題です。
今回取り上げたいのは山之内純太郎という運極のジャパニーズ・アウトサイダー・アーティスト(これは勝手に私がそう言ってるだけです)によるソロプロジェクト、ザ・ゲロゲリゲゲゲから2022年に発表された">(decrescendo) Final Chapter"というHNW(Harsh Noise Wall)のアルバムについて少しお話ししたいと思います。ロックでポップな曲が主軸な音楽テイストとなっている私にとってノイズ系の音楽というのはもしかすると最も程遠い存在であるはずなんですが、今回聴いたこのアルバムで私は絶大な体験をしたので、今回はそれを皆さんに共有したいと思います。

と、その前に簡単にザ・ゲロゲリゲゲゲの説明を
しましょう。このザ・ゲロゲリゲゲゲというアーティストは常人には考えられない、かなりアバンギャルドで並外れた作品をいくつも発表しています。私もまだ全ディスコグラフィーを追えていないのですが、ゲロゲリゲゲゲの表札的存在とも言える"昭和"という作品は、かなり不気味でローファイな国家が流れたと思いきや、その後約40分間、男女(恐らく男は山之内純太郎本人)による少々ハードコアなセックスの音源がただひたすら流れるというとんでもなく非常識的な仕上がりとなっていて、なんだか…変な作品なんです。そして何よりこの作品のアルバムカバーは、なななんと昭和天皇本人の顔写真そのものなんです。なんとも攻めた内容になんとも攻めたカバー。エッジに隙がない。

"昭和"のアルバムカバー


この作品以外にも"Senzuri Champion"や"Tokyo Anal Dynamite"など、まだ聞いてはいないので内容は知らないが、タイトルからしてまぁなんとも聴く気にならないアルバムが盛りだくさん。ただ、海外含め一部のアングラ界隈では絶大な人気を博しており、そもそもコピーが少なく希少性があるからかショッピングサイトやネットオークション等でかなりの高値で取り引きされているようです。気になって調べたところ、「SAINT LAURENT」というサイトでは"昭和"のアナログ盤レコードが一枚なんと¥660,000で…信じられないくらい巨額な値段。恐らく当時モノのNick Drakeの"Pink Moon"より高いのではないでしょうか…

まぁ色々激ヤバなゲロゲリゲゲゲの紹介はこの辺にして、今回のnoteのタイトルである">(decrescendo) Final Chapter"という作品について話を移しましょう。そもそもこの作品に出会うきっかけとなったのはインターネット最大の音楽批評サイトとも呼ばれている「Rate Your Music」で音楽をディグってた(ちょっとダサい)時にたまたま見つけたんです。確かHNWのジャンルで最も評価が高かった作品だったんです。普段あまりノイズは聴かないものの(実はちょいちょい聴く)日本人の作品ということもあって少し興味が湧き早速Spotifyへ…と思ったら、そもそもSpotifyでは音源が配信されていないではないか!でここで私は「あ、これはヤバそう」と察しました。なんとなく僕の経験上サブスクに配信されていない音楽というのは「ヤバい音楽」が多い気がするんです。良い悪いとかではなく「ヤバい」なんです。そしてお得意のYouTubeで調べたところ「Full Album」の表記がヒット!気になって仕方なかったので、見つけた瞬間83分早速ぶっ通しで聴きました。アルバムの内容をざっくり説明すると約40分間、似たような音が永遠に繰り返される体験を2回行う。これだけ聞くと何だか地獄のようなアルバムかと思うかもしれませんが、安心してください、ちゃんと地に足が付いた地獄です。

ここからはちょっと音楽評論家チックなそれっぽい感じで文章が続きます(恥)。かなり抽象的な作品だったのでかなり個人的なニュアンスで文章を書いてしまっています。なので理解しかねない表現が多々あるかもしれませんが、なんとなくで読んでくださいまし。

1トラック目は意外にも優しくローファイでアンビエントなナンバー。落ち着いたマリンバ(?)のような楽器の低い音と蝉の鳴き声のようなホワイトノイズがベースになっていて、そのバックには時折救急車のサイレン音やトラックが通る音、カラスの鳴き声、小さい風の音、そして人が咳き込み歩き回るような音などが入り混じっており、少し霧がかった日常の薄くて淡い描写が映し出されている。これらの音はとてもフラットで立体感はないのだが、絶妙な遠近感を持っており、響き方が謎にリアルで秀逸。ASMRtistとしてどんな音の撮り方をしたのかとても気になりますね。(やかましい)全体的にかなりゆったりとして落ち着きのある内容だが、絶妙な緊張感もある。これはあらかじめHNWのアルバムだという情報を知っていたからか、世界観にちょっと変化が加わると妙に構えてしまう。これを約40分。後半に行くにつれ睡眠用BGMを聴いてる時と近い感覚に陥る。見える光景は雨上がりの雲、灰色の窓、砂埃が立つ木製の床。哀愁漂う空間にどことなく寂しさを感じるが、そこには腰がかけられる安心感と少量の温もりも感じる。後半になるとたまにこの世界観が崩れそうな瞬間が謎にあるが完全には崩れない。そして最後はエコーのかかったカラスの鳴き声と共に急にフェードアウトして消えていく。一旦日常が終わった。1日が終わったのだ。実際に聞こえてはいないが、フェードアウトの時「また明日」と言われたような気がした。なんだか居心地が良かったから終わってほしくなかったような気分。ただ居心地は良かったものの、終わった時にこの曲が持つもの寂しく根暗な部分が俯瞰して見えるようになった。この曲、リラックス風味の強い曲で落ち着きのある雰囲気だが、世界観としては灰色でじめじめしている空間である。何だか答えのない道をただぶらぶら歩いているのだ。そして何か困ったことが起きたら、とりあえずコーヒーとタバコに任せて、また歩き始める。この曲の世界にはそういう焦ったさがある。なんだか不毛なのである。そしてまたいつか戻ってくるのかも、と思わせる。
そしてその後1分ほど無音が続く。この1分、かなり怖い。なぜならこの作品はHNWのアルバムだと知っているからだ。ノイズとは恐らく最も程遠い存在とも言える無音が流れ続けているのだ。そもそもアルバムの半分を聴き終えた今この時点でノイズ要素は全く感じなかった。まぁローファイな空気感だったので少量のノイズはあったとは言えるが、HNWというジャンルからするとそんなものは屁でもない。ないも同然のノイズだ。ということは、これから来るのか。こんなにも無音がうるさく感じることはないだろう。そわそわが止まらない。大雨の日、絶対に遅れてはいけない時にバス停でバスを待っている感覚。謎の緊張感と恐怖感のボルテージどんどん上がっていく。そしてついにその瞬間がやってきた。
トラック2。この世に存在する油を全て吸収してただひたすらに燃えている壮大な爆炎のような音が急に襲いかかってくる。これこれ。まさに"ノイズの壁"。流れてきた瞬間、文字通りビクッた。とにかく無茶苦茶な音がノックもせずただひたすらに私の耳の中に入っていき私の脳に無理矢理示唆してくる。そこにはこの世の森羅万象、"全て"が集まり集結している音を聞いているようにも感じられるが、その"全て"は決して混ざり合おうとせず、個々が個性を出そうと、前に出ようと、わがままになろうと、必死になっているのである。そしてここで私は気がついた。先ほどの一曲目は我々に自由が与えられていた。腕を曲げ足を伸ばせたのだ。奥行きがあり3次元の空間だった。選択の余地、考える時間があったのだ。そしてそれがそれぞれのバランスを尊重していたのだ。しかし、この二曲目はそんなもんは許してくれやしない。X軸の端からY軸の端まで、一色単の壁が目の前に聳り立っている。この世界に"懐中"と"塩梅"の2文字はない。とにかく圧。圧圧の圧。まるで身体が拘束されているような感覚に陥った。私の持ち合わせるエロスとグロスはここでは通用しないとでも言うのか。というか別にそれを露出したことは一度もないけどね。この壁は一方的かつ暴力的であり、そして機械のような冷徹な心を持っている。その無心な様は野心を抱いている。受け答えもしてくれない。その存在感ゆえに、頭の中はその壁のことしか考えられないのだ。時折悪魔の歯軋りのような音も聞こえ、私の不安をより煽ってくる。だがしかし、これが慣れの凄さなのかなんなのか、聴いているうちに少しずつなんだかふわふわした感覚になり、そこまで耳障りな存在ではなくなっていく。というか意識の中から消えていくような。落ち着くという表現がこの系統の音楽で許されるなら落ち着くと言ってもいい。これ、そういうある種の"日常"になったのだ。これが当たり前なのだ。こうでないとバランスが保てないのだ。この約40分という長いスパン、拘束されすぎてそう感じているのか。洗脳教育なのか。私は狂人の日常を手に入れたのだ。ちなみにこの曲にも音割れしたマリンバ(?)のような音がうっすら(たまに爆音で)聞こえ、後半に行くにつれて自然とその音に耳が傾くようになる(というか宝探しの如く探し始める)。多分これは一曲目に感じた落ち着きに最も近しい音であったから、何とかこの状況から奪回しようと自然と身体が勝手に欲している症状の現れではないか。だがもう私はここに居場所作ってしまった。作ったというか見つけてしまった。表向きでは救いの手を差伸べて欲しいとは思っているが、実際ほんとにそれを望んでいるのかと聞かれると…そんなこともない。「もう高望みだから」と半分諦めかけてる状態になっているということなのか?マンネリ化してもうどうでもよくなったのか?というかこの問い自体に興味すら湧かない。そんな状態にまで陥った。そして最終的には一曲目と同様、急にフェードアウトして終わる。フッと消えた、その瞬間、唖然とした。もうすでに開いていたはずの目がまた目覚めた。絶対に終わらないと思っていたものが終わったのだ。また一つ"日常"が崩れたのだ。その時の"居場所"だったものが消え去ったのだ。目に入ってくる情報の解像度があがり、リアリティが増してゆく。そこは開放感に溢れかえっていた。南京錠が開いたのだ。軽い、身体が軽い。てゆか耳が軽いよね。この感覚は一体なんなんだ。ずっと同じ固定の寝相をしている時にふと寝返ってみたら急にフィットする体制になり、謎の優越感と多幸感を感じ、本来睡眠にあるべき落ち着きを"取り戻した感"のあの時に近いのか。とにかく、拘束していたもの自らが私を真白の世界へ突き飛ばし、何かを"元に戻して"くれたのだ。私の身体と魂は解き放たれ可能性に満ち溢れた。次に進むことが許されたのだ。これが「自由」なのか?自由になったのか私は?今までの人生の中でもこんなにも解放感を感じられる瞬間は中々ない。そしてそれと同時に「これは許されていいのか?」という感覚にも陥った。終戦を迎えた時のあの三島由紀夫の感覚に近いのかもしれない。ほんとにいいの?大丈夫なの?と。今その瞬間、身近なものに気づき小さな幸せ見つけるのが特技になったような。もしもその時、目の前に木漏れ日があったら多分泣いていた。
一曲目と二曲目。それぞれ全く表情の違う世界観ではあったが、同じような居場所がそこにはあった。一曲目は聴き終えた後、また戻ってくるような感覚があった。しかしこの二曲目は聴き終えた後、次を見据えるような感覚になった。聞こえてはいないがフェードアウトの時「"終わり"のおわり」と言われたような気がした。もっというと「"始まり"のはじまり」。そして潔く「もう戻ってくるな」と私を突き飛ばした。

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