「自己実現」に対する勘違い
「自己実現」という言葉が良く使われる。
言わずと知れた「マズローの欲求五段階説」の最上位にある欲求だ。
現代人は、「物質的に満たされてきた世の中で、精神的な豊かさを求める」という文脈も相まって、使用頻度が多い言葉だ。
「あなたの自己実現を支援します」という
うたい文句のビジネスまで、存在している。
また、「夢」「使命」「志」「やりたいことをやる」・・・
類似の意味を持つ言葉とよく混同される。
そんな「自己実現」とは何なのか。
多くの人が勘違いしているポイントと、
本当に必要な事を本記事では考えてみたい。
「自己」を「実現」する、とは何か
「自己実現」とは、二つの言葉の合体だ。
分解すると①「自己」を②「実現する」となる。
つまり、この二つそれぞれの意味を考えてみればいい。
まず①「自己」とは何か。
あまり深入りすると、哲学的すぎるテーマで、ドツボにハマる。
なので、ここではシンプルに「自分を表すもの」と考える。
性格も、能力も、趣向も、見た目も、所有物も、全てだ。
次に②「実現する」とは何か。
こちらもシンプルに「目に見えるようになること」と考える。
「実」際に「現」れると書いて、「実現」だ。
つまり「目に見えない状態」から、「目に見える状態」にするから、
「実現」となるのである。
つまり、「実現」の意味を踏まえると、「自己実現」と言った場合に、
対象となる「自己」は、目に見えないものに限定される。
当たり前だが、既に「目に見える状態」なら「実現」する必要はない。
そういう意味では、前述した内容のうち、
・性格、能力、趣向など→目に見えないので、対象となりうる
・見た目、所有物など→目に見えるので、対象外
となる。
「目に見える状態」にするわけだから、
「夢」「志」「使命」などとは、全く異なる。
当然ながら、この3つは「目に見えない」頭の中で描くものであり、
「実現」は定義に含まれてはいない。
(「実現するまでやらないと、夢じゃない!」とかいう人もいるが、、、
言葉上の定義として、「実現」は別に含まれていない)
大いなる勘違い
「自己実現」というと、何か大きなことを考えがちである。
マズローの欲求五段階説で最上位にあるせいか、
「人生をかけて取り組む何か~」とか「世のため、人のため~」
とか重く考えがちである。
しかし、前述の通りシンプルに考えるのならば、
「目に見えていない自己」を「目に見えるように実現する」だけなので、
別に大きい話に限定されない。
例えば、自分の好きな食べ物を料理で作ること。
立派な自己実現だ。なぜなら「好き」という目に見えない趣向を、
料理と言う形で、実現しているのだから。
逆に、大きく見えても「自己実現」でない場合もある。
何十、何百億円という事業を手掛けていても、
株主・顧客・仕事の受託先などなど。
自分の意志とは関係ない内容なら、「自己実現」ではない。
ある意味で、「他己実現」である。
よく「仕事」で「自己実現」という言葉が使われる。
しかし、仕事とは当然ながら「他者の役に立つこと」であるため、
本来「自己実現」にはなりにくい。
※「自己」を「実現」した結果、たまたま他者の役に立っている場合は例外。
自己を実現するために
「自己」を「実現する」ためには何が必要か。
前述の通り、何か大きいことを考える必要はない。
どれだけ時間をかけて「自己」を考えたところで、
何か大きなことが見つかるわけではない。
どんなにスゴそうな人でも、1人の人間として見れば、大差はない。
偉業だって、膨大な人数の協力があってこそ。
そもそも一人の人間に宿る「自己」は、大したものではない。
大事なのは自己の深堀よりも、実現する「手段」である。
あなたは、目に見えない「自己」を表す手段として、
何を持っているだろうか。何を使っているだろうか。
文章を書くこと、絵を描くこと、料理すること。
ダンスのような身体表現、話すこと、科学実験をすること。
場を作ること、建物を設計すること。
様々な手段の中で、
「自分自身という存在を、目一杯表せている!」と
感じるのは、どんな手段だろうか。
「自己実現」というと、
すぐに「自分は何のために生まれてきたのか?」とか考えてしまう。
はっきり言って、無駄だ。「自己」なんて、大したものはない。
ただ、大したことない自己でも、良い「手段」で、
実現させると、必ず熱を帯びる。
なぜなら、「自己が実現されたもの」を見た人々は、
共感とアンチに明確に分かれる。賛否両論になる。
賛否両論がぶつかり合うから、必ず情熱が生まれる。
結果、人を惹きつける。
しかも、賛否に触れるうちに、自然と自分自身を深堀できる。
次に「実現」されたものの個性が際立つ→賛否が生まれる、、、
というループが生まれ、更に熱を帯び、人を惹きつけていく。
手段も、難しく考える必要はない。一つでなくてもいいし、
誰かの役に立つ必要もない。
(というかむしろ、役に立とうとすると前述の通り「自己」から「他己」になるので、役立たずがいいくらいだ)
何でもいいから、自分にとってやりやすい「手段」をやってみればいい。
感覚として、実行した後すぐに「スッキリ」するのであれば、
それは、自己を表せている可能性が高い。
なぜなら社会に生きている以上、ルールに従わねばならず、
「自己」を人間は一定以上隠している。
何かの手段を通じて「自己」を解き放つと、
普段抑圧されている分、「スッキリ」するからだ。
手段を実行して、他者から報酬や反応を得て初めて「スッキリ」するのは、自己実現ではない。マズローで言えば、「承認欲求」に近い。
悶々と悩むよりも、実現「手段」をやりまくり、
実行後すぐに「スッキリ」するかどうかを確かめる。
これこそが、最も「自己実現」に近づく方法である。
まとめ
『「自己」を考えている暇があるなら、小さな「実現」を』
肝に銘じよう。
かしこ。