才能に勝つ唯一の方法(※努力ではありません)
才能は、厳然たる現実として、存在する。
才能は磨かなければ意味がない、には完全に同意するし、
成功している人は、才能の上には身も蓋もない努力を重ねている。
しかし、努力は、あくまで才能の「上」に乗っかっている話で、
才能は存在している。
才能のある人たちの中で、どれだけ努力をしているか、をトップレベルでは競っている。
なので、(特にスポーツなどで)トップレベルにある人は、
努力の重要性を強調する。
しかし、それを一般ピーポーが真に受けても、参考にできない。
たしかに、才能との対比として、よく挙げられるのが「努力」だ。
「才能に、打ち勝つには、努力だ」と。
しかし、よく考えて欲しい。
ここに、才能があるAさん、才能のないBさんがいる。
才能のないBさんが、Aさんに勝つために努力をする。
このBさんの努力は、Aさんの努力により、成果を得られるかどうかが決まる。
当たり前だが、Aさんも努力をするので、
・Aさんの才能+Aさんの努力<Bさんの努力
⇒これは、Bさんの勝ちだ。
・しかしながら、Aさんの努力=Bさんの努力だと、
Aさんの才能+Aさんの努力>Bさんの努力
⇒となるので、Aさんの勝ちで、Bさんの努力は、報われない。
つまり、Bさんの努力は、自分で現状を打破しようと行動しているのに、
実は、「Aさんの努力」という極めて他人の行動に結果を左右されてしまう。
これで、「才能に打ち勝つのは、努力だ」と言えるだろうか。
私は、嫌だ。せっかく努力してるのに、相手の努力量によって、
自分の結果が左右されてしまうなんて。
・Aさんの才能+Aさんの努力<Bさんの努力
=Aさんの才能<Bさんの努力-Aさんの努力
となる限りは、才能のないBさんの努力は、確かに報われるので、
頑張りたい人は、ぜひ頑張って欲しい。(自分は絶対に嫌だけど)
さて、ここから本題。
では、「才能に勝つ、努力以外の方法は何なのか?」
才能の弱点は、ただ一つ。「再現性がないこと」だ。
芸術分野で、奇跡としか言いようがない作品が生まれる。
スポーツでの圧倒的な名プレイ。
このどちらも、Aをして・Bをして・Cをしたら、はい!できた!
とはならない。
才能を「センス」と言い換えてもいい。
言語化・体系化できない、圧倒的なパワーから生み出せるから、
人を惹きつけ、評価されるのだ。
だからこそ、その人自身にも、その成果を、「再現できない」。
なので、「努力だよ」「人格だよ」「意識だよ」みたいな
フワフワした話になり、こちらとしては一ミリも気付きがない。
(本当に、うざったい)
才能に打ち勝つには、この「再現性がない」という弱点をつくのだ。
すなわち、事実とロジックを積み上げた一定のパフォーマンスの「再現性」を作ればいい。
スポーツでいう、コンディショニングや体調管理と近い。
つまり、「いざ勝負!」となった瞬間に、その力をどれだけきちんと発揮しつづけられるか、だ。
サッカー選手の長谷部誠選手の書いた「心を整える」という本がある。
この本にあるように、まさに「強くする」のではなく「整える」という考え方のシフトが重要になる。
才能のあるAさんと才能のないBさんの話に戻る。
再現性を先ほどの式に加えると、
Aさん才能+Aさん努力<Bさんの努力
という話があったが、再現性の概念を加えると、
Aさん再現性×(Aさん才能+Aさん努力)<Bさん再現性×Bさん努力
となる。
才能があればあるほど、再現性は低い。
低くならざるを得ない。
常に、才能のあるAさんの再現性<才能のないBさんの再現性
となる。
毎回とは言わない。
しかしながら、「一矢報いるチャンス」は必ずある。
才能があるが故に、「スランプ」によくなるし、解決もできない。
スポーツや音楽の世界でも、若くして圧倒的なセンスで、
華々しくデビューしても、いつの間にか消えていくのは、
「再現性」がないからにほかならない。
若い時に華々しく活躍できなくても、
コツコツ、コツコツ。自分の能力を「再現性」をもって、
積み上げた人は、歩みこそ遅くても、
必ず、最後には勝つ。
しかも「再現性」のある能力だから、
ぶれることはない。ずっとずっと、安定して、
長期的に勝ち続けることができる。
言い方を変えれば、目の前の才能にかまけることなく、
「再現性」をもって、自分の能力を長期的に積み重ねられるかが、
勝負ともいえるのだ。
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「才能より、再現性」
肝に銘じよう。かしこ。