父の死 ①
父が10月に亡くなった。
74歳だった。
多系統萎縮症という国の指定難病(発病の原因が明確でなく、治療方法が確立しておらず長期の療養を必要とする病気。令和3年11月時点で338の病気が国から指定を受けている)と診断されたのが2019年2月だったので、そこからは3年半の療養期間だった。
しかし診断される2−3年ほど前から、めまいやふらつき、疲れやすさ、呂律の回らなさなどの症状を訴えていたため、発病してからは5−6年経過してたものと思われる。
私を含め家族は、父の症状の訴えに対して、「年のせいじゃないか。」と言っていた。しかし父は色々な脳神経外科を周り検査などしてもらっていた。幾つの病院を周ったのだろう…今となってはわからないが、そのうちの一つの病院の医師が大学病院を紹介してくれ、さらに検査を進め、症状と合わせて多系統萎縮症の診断がつくことになった。
この多系統萎縮症という病気に対して、医療従事者である私は全く知識がなかった。あまり文献もなくて、探り探りという感じだった。発症から約5年で車椅子使用、約8年で寝たきり、約9年で亡くなるという経過を辿るといくつかの資料にあ書いてあったが、父は私たち家族が思っていたよりも経過がずっと早くてまさに坂道を転げるようにという表現がピッタリとくるような感じだった。
父は訪問看護、訪問リハビリ、デイケア、レスパイト入院など利用しながら、在宅で療養しそのまま自宅で亡くなった。会社を定年退職してからの約10年は趣味に孫にと生活を謳歌し、最後自宅で過ごせて幸せたっだんじゃないか、と私は思っていた。
しかし、亡くなってしばらくしてから母に「お父さんがかわいそうだった。最後の2−3週間は夜に涙をいっぱい溜めてむせび泣くことがあった。声かけ切らんやった。」と聞いて、胸がキューッとなった。
父はこの病気の症状でこちらの言うことは理解できるが、伝えたいことを声に出せなくなっていった。さぞ歯痒かっただろう。だから、父が自分の病気のことをどう理解してどんなふうに考えていたのか、人生の終わりに何を思っていたのか正直わからない。もっとして欲しいことや、私たち家族に伝えたいことがあったかもしれない。
父は常々「元気で長生きしたい」「元気じゃなくなっても長生きしたい」と言っていた。
無農薬野菜を研究して、私たち家族にもたくさん作ってくれた。真向法という体操を行なったり、朝から犬の散歩しつつ、ラジオを公園に持参し皆でラジオ体操を行ったりもしていた。
他にも陶芸、染色、歴史、古文、木彫りなどなど様々なことに取り組んでいた。
孫が大好きで私の子供たち2人もずいぶん可愛がってくれて、親が連れていけないようなとこにもよく連れて行ってくれた。仕事で遅くなる時なども保育園に何度も迎えに行ってくれていたし、熱を出したといっては預かってくれたりもした。
私は19歳から結婚するまで一人暮らしをしていたけど、父と2人で旅行に行ったり、美術館、映画館へ行ったりとよく遊んだ。私が大阪に住んでいた頃は、仕事で年末年始に実家に帰れないとなると、1人で飛行機に乗って会いにきてくれたりもした。
本当にたくさんの愛情をくれた父だった。
ありがとうお父さん。本当に心から感謝の気持ちでいっぱい。
本当にお父さんの子供に生まれてこれて幸せだった。
私もそんな愛情を子供たちに注ぎたいなと思う。
そう思えて幸せだと思う反面、そうと思うしかないと思う自分もいる。
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