スライド1

ある日の夜中、左衛門は戸板を叩く音で目が覚めた。

外には更待ち月、ぼんやりと月明かりが入って来る。

(きやがったか?)

ゆっくりと床から上がり、枕元に置いておいたノミを手に物音を立てないように戸口に近くと、一気に戸板を引いた。

しかしそこには誰もいない。

周りを見回すと、ふと、長屋の角にひらひらと着物の端を振りながら誘っている者がいた。

「野郎!」

走ってそこまで行くと、相手はまた次の角まで移動している。

左衛門はそのあとを追った。路地をぬって浅草の大門まで出る。

大通りに月明かりがさし、思いの外明るい。相手はちらりちらりとこちらを見て、左衛門が付いて来るのを確かめながら、それでも一定の距離を保って隅田川の方に走っていった。

手前今戸橋を渡り、川沿いを走る。こんな所で返り討ちにあっては、人を呼ぶ手立てもない。一瞬左衛門の足も鈍ったが、相手はそれに合わせて速度を落とす

(なに考えてやがる)

今までのやり方とは違い、すぐには襲ってこない。しばらく河岸を北に走る。人家も見当たらなくなり、田畑や雑木林が目の前に広がり始める。橋場までたどり着くと左に折れ、山谷の方へ向かっている。

時折ついてこれているかを確認するように、走る速さを緩めるのがやけに癪に触る。玉姫神社の前を通り、吉原の大門の前まで出た。すでに硬く扉は閉ざされ、周りは田畑ばかりで灯もない。塀で囲まれたその中だけが薄明かりで包まれているのを観ると、そこだけなぜか異世界のように感じた。左衛門の長屋から直線距離で行けば大した距離ではない。しかし、これだけ人目を避けて迂回してきたと言うことは、どうしても誰の目も付かずに左衛門を連れ出したいところがあるようだ。

(どこ連れて行こうってんだ?)

大門の前を右に折れ、塀沿いに走って行く。伸び始めた草をかき分け、見失わないように追いかけた。吉原の裏手飛不動の前を通り、ある寺の前に立ち、左衛門が付いてきているのを確かめると、その中へと入っていった。

「どうやらここらしいな。もう追いかけっこごめんだぜ」

そう言うと門前で息を整え、目をあげた。

(榮法山…浄閑寺か)

「生きては苦界、死しては浄閑寺」と呼ばれ、多くの遊女がここに葬られている。葬られているなんていう言い方もおかしい。多くは野辺に打ち捨てられ、回向もされず無縁仏として墓穴に放り込まれる。

(まさか本当に…)

左衛門は背筋に冷たいものを感じた。

(いや、そんなことはねえ)

大きくかぶりを振り中に入った。しばらく境内を見回していると、裏手の墓所に夜風にゆらめいている着物の端が見える。左衛門は意を決してゆっくりとそちらに向かった。

果たして、そいつは先ごろ作られた供養塔の前にいた。

そこから動こうとせずにじっと塔を見つめている。ゆっくりと近づき、懐のノミを確かめる。相手はそんな左衛門に気づく様子もなく、じっと供養塔を見つめたままだ。湧き上がる苛立ちを抑えきれず、左衛門は声をあげ、啖呵を切った。

「てめえ、一体何者だ。おれをこんなところまで呼び出したってこたぁ、夢千代を騙って人を殺めている野郎だな」

奴は低い笑い声を立ててゆっくりとこちらを向いた。月の逆光で、目深に被ったほっかむりで顔を確かめることができない。

「随分と薄情な旦那さんだこと、わっちの隅々まで穴のあくほど眺めたくせに」

やけに艶めかしい声で、顔にかけた手ぬぐいに手をかけた。

「わっちをお忘れかへ」

月齢二十日の更待月の柔い光に照らされたその顔は、まごうこと無く夢千代だった。

つづく

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