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「サモエの嫁入り箪笥」第2話(最終話)

どれだけ眠っていただろうか。サモエはすでに暗くなりかかった夕ぼらけの中で重たい頭を持ち上げた。起きてすぐ体温がぶわっと上がって汗が滲んだ。暑くなったのでお水を飲みに井戸の方へと向かった。サモエの家から井戸へは少し歩いたところにある。サモエはふらふらと少しずつゆっくりゆっくり水を求めて歩いていった。これまでこんなにも疲れたことがあっただろうかという気がしてくる。なんだか狐にでも化かされている気分がする。狐ね、狐。サモエはふと母から教わった、まじないを思い出した。まず、両手で狐の形を作って、片方をひねってその耳と耳を合わせる。そしたらその指を開いてできた穴を覗くと人に化けている妖怪や魔性のものの正体を見破ることができるべし。サモエはなんだか陰陽師にでもなったような気分になってその手をエイっと勢いよく伸ばして「ソワカッ!ソワカッ!」と唱えてみせた。そうしている自分を客観的に想像してみて、その滑稽さにくすりと笑みが溢れた。するとそこにぬるっとカキヤが現れた。

「楽しそうな遊びですね、ソワカッ!ソワカッ!」

「あ、これはお恥ずかしい・・・」

「いいんですよ、ワカさんにサモエさんの様子をみてやって欲しいと言われたもんですから伺いましたけど、なんの心配もいらなさそうですね」

「ワカが?」

「えぇ、聞きましたよ、アンさんが戻ってこられたとか」

「あ、え、その、まぁ、そうです」

「ワカさんも心配だったようで、私のところへ相談に来てくださってね、サモエさんが憑かれているんじゃないかって」

「えぇまぁちょっとは疲れていますが」

「そうじゃなくて、何か、妖怪にでもという意味です」

「あぁ、ワカ、あの子、なんか信じてくれたようだったのに、カヤさんのところにそんな相談を、、、」

「そりゃあ心配になりますよ、死んだ人が死んだまま帰って来ただなんて、普通は気が触れたか、何か化けてるかと思うのも仕方ないでしょう」

「でも、たしかにアンさんの気配は感じてくれていて」

「まだ亡くなって間もないんだ、近くにいるような気がするのもまた仕方ないでしょう」

「いえ、そんな曖昧な存在感ではないのです、たしかにいると信じられるのですし、昨夜私は実際に会っています」

「人間は知らず知らずのうちに執着を育てては、知らず知らずのうちに世界を歪めて見てしまうものです、それが心の働きとでも言えましょうが、物事には道理と程度というものがございますでしょう、道理に適わぬものはどうしたって私たちの生きる世界には存在しえないし、多少の歪みは愛嬌でもありますが、程度が過ぎては狂気となります」

「カキヤさんは、私が狂っているとお思いで?」

「サモエさんは狂っていません、ただ、何かに憑かれているのかもしれません」

「憑かれている、、、カキヤさんもこの後アンさんにお会いになったらわかります、そこにはたしかにアンさんがいます、死んでますけど」

「いいですか、サモエさん、死んだ人間は動きません、話しません、精神の活動だってありません、もし、サモエさんのおっしゃるようにアンさんが死んだまま動き、話し、心を通わせられるのであれば、それは道理に適いません。憑かれていなかったとしても、正しくはない。それが、現実です。」

「いいえ、それは現実ではありません!現実は、アンさんが死んだまま動き、話しているということです、カキヤさんのおっしゃる現実は、そうあって欲しいと願った現実ではありませんか!」

「サモエさん、落ち着いて考えてみましょう。アンさんは本当にいい人でした、私もあんな人が亡くなったのは大きな損失だと思います、」

「カキヤさん、私たち姉妹のことをいつも気にかけてくださっていたことは感謝いたします、母が死に、父が飛んだ私たちにとってカキヤさんが説いてくださる教えは法律よりも信頼のおけるものでした、それでどれだけ私たちが現実の労苦から距離を置き、呼吸をできるようになったか。カキヤさんへの恩義はカヤさん自身も想像できぬくらい厚く私たちの足元を支えております。ですが、私の経験した現実を書き換えるのはカキヤさんにだってできたものではないはずです。まもなく日暮です、蜘蛛になったアンさんも出てこれましょう、アンさんがそこにいる現実をただ私と一緒に経験してもらいたいのです。経験せぬまま、憶測だけで私の現実をいじくり回さないで欲しいです。」

「サモエさん、もちろん私にそんな気持ちはありません、誤解を招いたなら謝ります、ただ私もワカさんも何よりあなたのことが心配になっただけです。」

「そのご心配には感謝します、ですが、誤解をされているのはカキヤさん自身です、カキヤさんはご自身が先ほど言われたことの意味をご自身で理解されていないのです、もうしばらくお待ちください、アンを連れて参ります、アンと共に語り、触れ、願えるなら慈しみあっていただきたい」

「わかりました、わかりました、どうぞ、どうぞお待ち申し上げておきます」

サモエはカキヤを置いて、アンの元へと向かった。サモエは反省した。いくら肉親といえど、いくら親代わりといえど、私の現実を言葉だけで分かち合えると思っていてはダメだったのだ。カキヤにも、ワカにもしっかりとアンに会ってもらわなくてはいけない。私の現実の中に、入ってもらわなくてはいけない。サモエは少し焦っていた。アンは本当にいるのか、私は憑かれているのか、火車がやってくるのか、ワカは、カキヤは受け入れてくれるだろうか。カキヤとの問答はサモエの足元をぐらつかせるには十分だった。カキヤがサモエに言ったことは、サモエ自身もまだ振り払いきれていない論理であったからだ。サモエの経験している現実は、道理にも適わないし、程度も過剰だ。これは、現実的に正しくないのか?過剰な思考の目まぐるしさは水を取るのも忘れたサモエの身体をもたつかせた。屋根裏へと進む足はうまく支えを掴めず何度も滑った。手はどこを掴んだらいいのか、どのくらいの強さで掴めばいいのかもわからず強すぎるくらいには梁を掴んだ。

屋根裏に、アンの姿はなかった。かろうじて差し込む夕暮れの光にサモエの身体は焼かれていた。サモエは息を切らしていた。外からはお経が聞こえた。カキヤの声だ。カキヤの声に負けじと劣らずワカの声も聞こえた。お経は誰に向かって唱えられているのだろうか、いるかもわからぬアンだろうか、サモエだろうか、それともこの家にだろうか。いずれにせよ今のサモエにとってお経は慰めにもならない。なんならこのお経によってサモエは怨霊にでもなってしまうのではないかとすら思われた。怨霊になってしまうことの方が正しいと、この時のサモエには思われた。この世界はなぜ、いつも私に「なぜ?」と問わせるのか。私はあと何度、「なぜ?」と問わなくてはならないのか。「なぜ?」と問うた先に応えがやってくるこのだろうか。私は、なぜこうも私なのだ。

「サモエ、、そこにいるのか」

アンの声がした。サモエはそれが現実かどうかを確かめるように声のした方を振り返った。しかし、そこにはアンの姿はない。カキヤの言う通り、サモエのアンへの執着が、この世界を歪めてみせたのか、聴覚が狂ったのか、サモエの全部が狂ったのか。そうした疑いが、サモエの血液を染め上げていた時、サモエは気づいた。桐箪笥がある。母の遺品を詰めていた桐箪笥はサモエとワカにとってこの世のものとも思われないし、あの世のものとも思われないものだった。どっちつかずのことをどっちつかずのままにしておきたい人間のズルさがこの桐箪笥にはこびりついている。サモエは見ないようにしてきた桐箪笥と向かい合った。アンの声はこの桐箪笥の中からしたにちがいない。サモエは背中から聞こえるお経に押されるようにして桐箪笥へと歩いた。そして、桐箪笥を開けてみた。そこにはアンが窮屈そうに、しかし快適そうに小さくなって収まっていた。母の桐箪笥は中途半端になった存在の受け皿にもってこいであったのかもしれない。アンの臭いは少しキツくなっていて、開けた途端に臭いが一気に広がった。サモエは吐き気を催したが、自分が間違っていないことに一種の快楽を感じた。

「こんなところにいたんですね」

「あぁ、心配かけたね、君が下に降りて行ったあと、ハエが払っても払ってもぼくの周りを飛び回ってきて、卵でも植え付けられたらたまったもんじゃないと思って、急いでこの箪笥の中に逃げ込んだんだ。そしたらずいぶんと居心地が良くてね、ぐっすり眠ってしまったみたいだ」

「また会えて嬉しい、なんだか、私、もう、何がなんだかわからなくなっちゃって」

「そうだよね、ぼくのせいでサモエをずいぶんと疲れさせてしまっているね」

「カキヤさんと、ワカがあなたを払おうとしている、というか、私を正常に戻そうとしているみたいなの、聞こえる?」

「(耳をすまして)あぁ、般若心経だね」

「どう?」

「どうって?」

「お経、効くの?」

「あぁ、、、、あぁっと、いや?」

「そう、、よかった」

「ちょっとがっかりしてないかい?」

「お経って何のためにあるんでしょうね」

「とらわれるな!って感じじゃないの」

「何よりとらわれてるのはあの人たちじゃん」

「ぼくが「死にたい」って言うみたいな感じだね」

そろりそろりとアンは桐箪笥から出てきて、外にいるカキヤとワカの様子を覗き込もうと外の方へと進んでいった。サモエは、ふと、気になった。私は憑かれているのだろうか、と。アンは、やはり何か憑き物なのだろうか、と。それとも、別の何かがアンの死体に取り憑いて動いているだけなのかもしれない。サモエは疑った。だから、サモエは母から教わったまじないをまた作って、アンの方へ向けて、その穴を覗いた。そこには、ただ、変わらずアンがいた。

「サモエ、何を笑っているの?」

サモエはその手のまま、訳もわからず、笑った。客観的に自分の姿や思考を捉えて、おかしくなってしまった。何を真面目に自分はおまじないを信じて、目の前のアンを疑っていたのか。たとえ本当に幽霊がいたとしても、このまじないで見えるわけがないじゃないか。それなのに、サモエはその覗き穴から見える変わらないアンの姿に極度の安堵を覚えた。アンは死んでいるけれど、ここにいる。そのうち腐ってしまうけれど、今はここにいるのだ。そんなことで安心をしてしまう自分の柔な疑いも、単純な思考もなんて可愛げのあるお馬鹿さんなんだろう。お釈迦様も菩提樹の下で悟られた時には、きっとこんな風に笑っちゃったんじゃないかとすらサモエには思われた。

「これね、お母さんが教えてくれたまじないなの」

「へぇ、おまじない?」

「そう、手をこんな風にしてね、そしたらここに穴ができるでしょう?この穴から覗くと、妖怪とか、この世のものではないものが見えて、化けているならその正体がわかるの」

「それで、ぼくを覗いてみたってこと?」

「そう」

「どうだった?」

「アンさんだったから笑っちゃったの」

「どうりでお経で払えない訳だね」

「単なる死体、単なるアンさん」

「それ以上の意味が、ない訳だね」

「そう、それ以外、何も見えないよ、ソワカ!ソワカ!」

「何それ、合ってるの?それ」

「いいの!ソワカ!ソワカ!」

サモエはふざけてまたその手のまま腕を前後に出したり引いたりして、遊んだ。アンは少し戸惑いながらも、仕方ないように笑って見届けた。サモエはまたその穴からアンの姿を覗いた。すると、そこにはアン以外のものが見えた。轟々と燃えたぎる炎がまるでこの家の外の世界を焼き尽くしてしまっているかのようだった。歌舞伎の見栄を切るようなその黒目はぴくりとも動かずにこちらを覗いていた。サモエはこのまじないを解いてしまうのも忘れ、ただそれから目を離せずにいた。身体中から脂汗が滲み、呼吸が荒くなっていく。覚えているのは黒々と燃えたぎる炎と、感情もなくただ自分の仕事をすることにしか関心のない空っぽな黒目、そして破風からぬるりと伸びてくる毛むくじゃらの大きな腕。その腕はアンの身体へとまっすぐ伸びていった。サモエは気付けばアンの腰に飛び付いて、ものすごい怪力でアンを桐箪笥の中に戻した。その時にアンがサモエに何かを言いかけていたが、サモエの能力値は一時的にすべて筋肉と視覚に割り振られていたためサモエの耳には何も届かなかった。人形のようにぐでんぐでんと桐箪笥の中にアンを収め込んで、サモエはそこに覆い被さった。必要な任務をひとまず終えた途端にあらゆる認知機能が戻り、サモエは訳もわからず涙した。ぐすりぐすりと自分の鼻をすする音がするものの、サモエの身体は桐箪笥を抱えて離さない。過剰なまでに込められた力はそのまま桐箪笥を抱き潰してしまうようにも思われた。手加減の程度がわからない。ほんの少しでも緩めてしまえばこのサモエの身体などひょいと蚊を払うように放られてしまうと思われた。だから涙を拭くことも、鼻水を拭うこともできないで、ただサモエは泣いていた。いつまでこうしていればいいのかもわからない。あいつが今はどこにいて、あの黒目をどこに向けているのかもわからない。サモエにできることといえば、般若心経を唱えることだけであった。お経はここで誰を救うだろうか。あの毛むくじゃらの腕からアンを救ったサモエだろうか、それとも願わずも死体のままよみがえったアンだろうか、それとも自分の仕事をまっとうに果たそうとするアレだろうか。そんな迷いの中でもサモエにとってお経のほかにすがるものはなかった。羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。おばあちゃんが唱えていた般若心経でよく覚えているのはこの箇所だ。ぎゃーてーぎゃーてーはーらーぎゃーてーはらそーぎゃーてーぼーじーそわかー。サモエはただ繰り返した。そうしているうちにアンがずっとサモエに語りかけていたことに気がついた。

「サモエ、サモエ、サモエ、、、、サモエ、、、」

「、、、、アンさん、、」

「サモエ、やっと聞こえたかい」

「えぇ、アンさん、聞こえます」

「あいつから守ってくれているんだろ」

「アンさんにも見えたの?」

「あいつに触られた瞬間に見えるようになった、大きな目玉があった、炎がばちばち燃えていた」

「そうなの、そうなのそしたら無我夢中になって」

「ありがとう、楽しかったよ、ありがとう」

「何を言うの、ねぇ、何を言うの」

「この世には道理がある、ぼくはあいつに連れていかれなきゃいけない」

「そんなの知ったことですか!私には私の道理があります!たとえこのまま八つ裂きにされようとも私はこの箪笥を離しません!」

「サモエ、もういいんだ、もういい、十分じゃないか、またこうして会えたんだから、話せたんだから」

「死人のくせに往生際が悪い!だからと言ってあとはお願いしますとなる訳ないでしょう!?脳みそまで腐り切ったの!?」

「いや、なんというか、もう死んでるんだから往生際が悪いっていうのも何かおかしな気がするけど、でも、ぼくはね、サモエ」

「、、、、、、」

「ぼくはね、サモエ、これでやっと受け入れられるんだ、自分の身体を、心臓弁膜症を、ぼくの死ぬ直前の最後の記憶は、自分の身体への、病への恨みだったんだよ、ぼくは自分の存在を最後まで受け止めることができなかった」

「、、、、、、」

「でもね、サモエ、死んだままにせよ、君にもう一度会って、楽しかった思い出を話して、ほんの短い時間だったけれど、それだけで、ぼくの死に際の記憶がいいものに塗り変わった、それでもう十分さ」

「ほんとうに、、」

「な、サモエ、だから今までありがとう、君たちの幸せを願っているよ」

「ほんとうに、なんで、、なんで男はこうもいつもいつも勝手なんだろうか、、」

「え?」

「いい加減にしてよ、死まで経験しておいて性根が腐ったままってどう言うことなの!?私がどんな思いをして今!今!まさに今!全力を尽くしていると思っているの!?痛いの!腕が!足が!顔もぐちゃぐちゃなの!わかる!?どんな思いでいると思っているの!?あなたがあなたの死を受け入れたかどうかなんて知ったこっちゃない、ここには私もいるの!あなたと、私がいるの!」

そして桐箪笥はふわりと浮いた。その瞬間にサモエにもあいつの姿がおまじないをしないでも見えるようになっていた。それはいつの間にか屋根裏の中に侵入していて、大きな身体を窮屈そうに屈めて、サモエたちを見下ろすように立っていた。あたりは業火に包まれ、ここが家の中なのかそれともすでに地獄にいるのか見分けがつかないようになっていた。それは両手で包み込むようにサモエごと桐箪笥を持って、外に出た。サモエは全く身動きができぬままただ運ばれていくのみであった。外はあいも変わらず虫たちと蛙たちの音楽が鳴り響き、今日はそこにカキヤとワカの般若心経も加わっている。サモエは身動きが取れないまま、カキヤとワカと目が合った。

「サモエさん!」

「姉さん!」

「浮いている!サモエさん!浮いている!」

「姉さん!姉さん!嫌!」

「浮いてる!浮いてる!」

「嫌!嫌!行かないで!姉さん!」

「浮いて、浮いてる!」

「カキヤさん!どうにかなさってよ!姉さんが行ってしまう!」

「浮いてしまっては、もうどうしようも、、、、」

「なんなのこの坊主は!!浮いてたらなんだっていうの!」

そうしてカキヤとワカには見えないソレは、カキヤとワカのことには微塵も注意を向けず、轟々と燃え盛る炎がまたさらに火力を増したかと思うとゆっくりと空へ飛んでいった。どんどんとカキヤとワカと、あの家が小さくなっていく。

「サモエ、もういいから、こいつはぼくのことしか関心がないはずだ、はやくぼくだけに!」

「もう身体もがっしり掴まれちゃって、全然身動きが取れないの」

「この馬鹿!何をしてるんだ!君まで連れて行かれたら君は生きたまま死者になるぞ!」

「馬鹿と一緒になった方が馬鹿で間抜けで死に損ないなのよ」

そして、アンは箪笥を押し破ってきた。メリメリと古びて朽ち始めていたところからアンの腕が抜き出た。その腕が引っ込んだかと思えば空いた穴を広げるようにぐいぐいとアンは箪笥を破壊していった。サモエは「アンさん!やめて!アンさん!お願いだから!」と何度も叫びながら、ただ破られていく箪笥を見届けるしかなかった。アンは箪笥の中から抜け出して、上半身を出して、まるで半身浴にでも浸かっているかのようだった。目の前にうつ伏せで横たわり、頭だけをこちらに向けて必死に「馬鹿!」と連呼するサモエをアンは見下ろした。アンはサモエの姿を見たことを後悔した。自分の身を差し出すしかないという選択肢をチョイスする勇気が怖気付いてしまったからだ。目の前にサモエがいる、サモエの身体があることのどうしようもない呼びかけがアンの勇気を鈍らせる。アンは自分の弱さに嫌気がさして、こんな自分などいなくなった方がマシだと論理的に結論づけて、その自己嫌悪をエネルギーに変えた。アンはバランスを取りながら箪笥の上に立って、それに呼びかけた。「火車よ!俺は今自由だぞ!」アンはそう口にすると、火車の黒目がぐるりとアンの方へ向いた。それはすぐにアンを掴み直そうと両手で抱えていた箪笥とサモエから右手を離した。その瞬間、サモエは動かせるようになった右腕をぶるんと振り回し、アンの足元をものすごい怪力ですくった。アンはすぐにバランスを崩し、箪笥から落ちた。火車はすぐさまアンを追いかけた。

アンはまっ逆さまに落ちながらサモエのしぶとさに感服していた。このまま地面に叩きつけられたとすると、自分は死ぬのかどうかが気になった。すると自分は二度死んだことになる。もしこれでも死ねなかったとしたら?それはいよいよグロテスクなものになってしまう。それではさすがのサモエも愛想をつかせるというか、世話を焼ききれないだろう。私はすぐに野犬に食べられて終わりだろう。野犬に食べられればさすがにもう終わりだろう。こんな間違った存在はいてはいけない。これでもずいぶん長くいさせてもらったと思わなければバチが当たる。そうこうしているうちに、もうすぐ地面だというその寸前に火車はアンの両足をがっちり掴んだ。それと同時に、火車は抱えていた箪笥とサモエから手を離した。その勢いで空中に放り投げられたサモエはギラギラと目を燃やして、上昇していくアンの上半身にしがみついた。アンはもうサモエの執着に感心するどころか恐ろしさすら覚えた。自分はとんでもない人間を妻に持ったのだと、呆気に取られた。サモエの執着はとんでもない怪力でアンの胴体を抱きしめた。そのため、アンの身体は火車による上昇方向と、サモエの執着と重力による下降方向の交渉の場になった。

そして、その交渉は、腐ったアンの身体には仲裁ができなかった。へそのあたりを境にアンの上半身と下半身は引きちぎれた。上半身はサモエと共に地上へ、下半身は火車と共に夜空へと引き別れた。

サモエはアンの上半身を抱えてまっ逆さまに落ちた。木の枝に何度もぶつかったことで衝撃が和らいで、強く地面に叩きつけられるようなことはなかった。夜は静かだった。サモエはアンに抱きついたまま、しばらく動かなかった。ぶるぶると震え、身体の力がうまく抜けずにいたサモエを気遣って、アンはサモエの背中をゆっくり撫でた。サモエは深く呼吸を繰り返して、どうにか落ち着いていった。

「アンさん、ごめんなさい、下半身が、千切れちゃった」

「サモエ、いいんだ、これで火車から追われなくて済む。ずいぶんと飛んだね」

「落ちる間際、海が見えた」

「本当かい、それはずいぶんときたね」

「ねぇ、海に行きましょうよ」

「それはいいね、でも、疲れたんじゃないかい?」

「ちょびっとね、ちょびっとだけ、くたくた」

「川の音が聞こえる、そこに休めるところがあるかもしれない」

アンはそうは言ったものの、下半身を失っている手前、ほんの一瞬、どう動いていいのか分からなくなった。サモエに運んでもらうほか移動手段は無いように思われたが、甘えてはいけないだろうという規律がアンの自助努力を促した。アンはこれ以上身体が壊れていかないように慎重にずり這いをした。しかし、思ったよりもアンの身体は脆く、崩れやすくなっている。指の腹はいとも簡単に崩れ、爪も剥がれた。アンの身体はすでにその結合を解き始めて、離れ離れになろうとしている。アンは怖くなってきた。自分の身体がバラバラになっていくのを見て、自分はいつになったら死ぬのだろうか、この意識はいつになったら活動を終えるのだろうかと自分のことに精一杯になった。すでに動かない心臓が痛い。なぜだかそのように感じた。心というものはどこにあるのか、なぜ死んだ身体の中で心だけが痛むのか。アンは混乱の最中に放り出された。あのまま火車に連れていかれればよかった、そう思い始めた矢先に、アンはサモエに担がれた。

「ずいぶんと泥まみれになってしまいしたね、アンさん」

「サモエ、泥がついたかどうかなんて問題じゃないよ」

「昨日からお風呂にも入っていないでしょう?」

「お風呂に入ったらもうそれこそぼくはバラバラになってしまうよ」

「残念、一緒に入りたかったのに」

「腐った男と一緒にお風呂に入ったら毒だよ」

「そりゃ腐った男は嫌」

「そうだろう」

「えぇ、でも、洗ってあげる」

サモエたちは川についた。ちろちろと転がるように流れる川の浅瀬にサモエは足を浸した。冷たい水がサモエの筋肉を冷やして、疲れを流し去っていくようだった。このまま手を離せばアンは成す術なく川にドボンと落ちる。アンは生殺与奪の剣をサモエによって握られているような気分がした。かといって抵抗をしても無駄である。アンはサモエが川から出てもらうようにお願いするしかない。アンは何とも情けないというか自分が負けるしかないような思いの中で少しだけ気持ちの良さも感じた。アンはその心地よさをサモエに悟られまいとニュートラルにお願いした。「洗うのなら、ドボンと突っ込むのではなく、ちょろちょろと洗ってほしい」。アンがそう言うとサモエは眉をちょっと上げて、しょうがないなと言わんばかりに息を吐いて川から出た。サモエは川辺のちょうど良い岩を見つけ、隣にアンを置いて、自分は膝まで足がつかるように座った。二人はただぼうっと川の流れを眺めていた。川の流れの音はそれ以外の声を聞こえないようにしてくれる。二人はただ一緒にいて、ただ川の流れを聞いた。川の流れは二人をしっとりと包んで、二人だけにしてくれた。サモエは思い出したようにアンの腕を掴み、パッパと土埃を払った。なんだか藁の束でもはたいているみたいな感触がしながら、サモエはアンの上半身をくまなく払った。アンは「自分でもできるよ」と言おうとしたが、サモエの柔らかくも熱心な目を見て、言うのをやめた。

「背中」

そう言ってサモエはアンが着ていた着物をするすると脱がしていった。アンはされるがままに上裸になり、くるりとサモエにひっくり返された。サモエは色のくすんだアンの身体にちょろちょろと川の水を垂れかけて、肉が崩れぬようにゆっくりと柔らかく撫でた。

「お顔」

またくるりと向き直り、サモエはお水をアンの頬にぺとりとつけて、ツツツーっと指の腹で伝った。また水を汲んで、おでこに少量、お鼻にちょろっと、まぶた、こめかみ、首、喉仏、顎、唇と和歌を詠むように指でなぞった。サモエの指がアンの唇を優しくも何度も執拗に洗う。サモエの瞳はさらに熱心になって、時折アンの瞳と視線が交わった。

「サモエ」

「なぁに?」

「次はぼくの番だよ」

「できるの?」

「工夫が必要だけどね」

「どうするの?」

アンは岩の下に自分を移動させて、目の前にぶらんと垂れるサモエの脚を持ち上げてせっせとマッサージを始めた。アキレス腱からふくらはぎを膝裏まで等間隔で何往復も揉んでいく。つま先を持ってぷらぷらと振るとサモエのふくらはぎがぷらぷらと揺れる。それを両足繰り返す。「なんだかやりにくそう」と言ってサモエは岩から降りてアンの前にうつ伏せで横たわった。アンはマッサージの続きをした。やりやすくなった。太腿も同じようにじっくりと指圧を加えながら脚がはじまるところへと向かっていった。

「起きていいよ」

「終わり?」

「ううん、次は上半身」

そうして次はアンが岩に上げられて、サモエの首を付け根から同じように揉んでいった。肩は揉んだり叩いたり、肩井を押したりした。やはりずいぶんと緊張していたのかサモエの首や肩はずいぶんと凝っていた。いいや、そもそもサモエは母を亡くし、父を無くし、一家の主としてワカと一緒に暮らして来たのだ。そのご苦労がここに詰まっている。

「痛くない?」

「えぇ、ちょっと」

「どっち」

「ちょっとだけ痛い、でもいい痛さ、これまで感じた痛みの中でもいい部類の方」

「そう、このまま強めても?」

「いいえ、このくらいでちょうどいい」

「わかった、このまま続ける」

「アンさん」

「なぁに?」

「痛いだけじゃない、気持ちいい」

「そう、よかった」

「アンさんも気持ちよかった?」

「あぁ、、、、気持ちよかったよ、サモエの手はいつもぼくを無防備にするね」

「なぁにそれ、なんの話」

「さっきの話さ、これでぼくは世界一綺麗な死体さ」

「アンさん」

「なぁに?」

「そのまま抱っこできる?」

「できるよ、工夫が必要だけどね」

サモエは少し岩にもたれかかるようにしてアンの方へと寄りかかった。アンはそのままサモエを迎え入れて、後ろから腕を回した。それから二人は時々腕の位置を変えながら長い時間を過ごした。二人の会話はこの時ばかりは川の音が包み切ってしまって聞こえない。

夜が最も暗くなる時、再び二人の声が聞こえてきた。

「アンさんもそんなことできたのね」

「ぼくをあなどっちゃいけないよ、もっとすごいことだってできるさ」

「笑っちゃう」

「本当さ」

「ねぇ、アンさん」

「ん?なんだい」

「アンさんは、どこで死にたい?」

「どういう意味?」

「時間のことを思い出してしまったの」

「あぁ、、」

「見て、アンさんの腕」

「あぁ、気がつかなかった」

「やっぱりさっき無理をしたのがよくなかったね」

「ううん、あれはすべきことだったから」

「いつまでもこうしてはいられないってことを私、忘れてた」

「いいじゃないか、こうしていようよ、いつまでも」

「そういうわけにもいかない、こうやってちょっとずつアンさんはバラバラになって、ちょっとずついなくなっていくのに任せるのはよくないと思うの」

「サモエ、ぼくはこう思うんだ、ぼくがこうして少しずつ自然の中にバラバラと放られていけば、ぼくはそこらじゅうにいることになるだろ?この自然がぼくの墓ということになるじゃないか」

「傲慢にもほどがあります、自然はあなただけの場所じゃないの、ここで朽ち果てるということはあなたはむしろあなたの場所を失うってことなの、そうしたら墓どころじゃない」

「そうしたらこの岩をぼくの墓石にしたらいいんじゃないかな」

「アンさん、よく考えて?これでもう十分だって思っていない?これ以上望んではいけないって思っているでしょう?あなたはまだ望めるの、最後にどこで死にたいか、望んで構わないの」

「サモエ、これ以上何を望むっていうのか、こうしてぼくの身体がバラバラになるまで一緒にいよう、それがぼくの願いだよ」

「私と最後にいる場所はここでいいの?本当に?たまたま落ちただけのところで?」

「サモエ、君は何がしたいんだ、さっきまでの幸せな時間に水を差して、どうしてそこまでしなくちゃいけないんだ」

「残された時間がわずかだから、どうせならやり切りたいじゃない」

「欲張りだよ、それは」

「欲がある限り、人は死なない、、、どうせなら最後まで生き尽くしてやりませんか」

長い沈黙が流れた。川の音は二人を包まないでただ流れていた。サモエは待った。次に話すのは、アンでなくてはいけないと思ったからだ。たとえ、次にアンが発した言葉が「ここで死にたい」であったとしてもサモエは受け入れるつもりだった。だがそれが積極的に言われない限りはサモエは納得しないと思った。サモエは待った。アンの最後の願いを聞くために。アンはなんと言うだろうかと様々な推測をした。アンは星空が好きだった、このままどこか開けたところに行って、星空を眺めていたいと言うだろうか。アンは酒も好きだった、最後に酒を仰ぐと言うのもあり得る筋だ。アンは歌ったり踊ったりすることも好きだった、ただひたすらにアンの魂が消え失せるまでいつまでも歌い踊ったっていい。アンはサモエの身体も好きだった、特にサモエの鎖骨をハムハムと咥えること、それの何がいいのかと何度も聞いたが、ついぞ理解できなかった、理解できないながらもそれが最後の願いと言うのであれば、まぁいいかという気がした。アンは波の音も好きだった、最初は海を眺めているのだと思ったが、その目は明らかに波の音を聞いている目であった、アンはたまにあんな目をしていた、サモエがはじめて両親のことを打ち明けた時もあんな目をしていた。サモエはアンのこととなるとどうしようもなく妥協がしたくなくなる。サモエは待った。

そして、ついにアンは再び声を発することはなかった。

川が悪いのか、その流れがアンのかろうじての魂を流してしまったのか。下半身が千切れたのが悪いのか。火車から奪い返してしまったのが悪いのか。それともアンの言葉を待つと決めたのが悪いのか。サモエは再び現実を解釈する苦しみの中に放り込まれた。目の前にいるのは、アンの死体だ。目の前にいる死体は話さない、動かないのだという道理に適った現実を認めなくてはいけないそのことがサモエの心臓を捻り潰していくかのようだった。サモエはアンの死体から目を離せずにいた。実はまだ答えに迷っているだけかもしれないという可能性が残っているからだ。サモエは自分がすべきことが分かっていた。確かめるべきだ。アンがまだ言葉を探しているのか、それとも、もう声を聞けないのか。だが、サモエにはそれができない。自分の確認で物事がハッキリしてしまう。このまま時間がもっと過ぎてじわりと明らかになっていくのに任せてしまう方がいい。その方が自分の身のためだ、そうサモエは思い、少し笑った。しかし、そう思えば思うほど、サモエは強い罪悪感に駆られた。サモエの心はこうして少しばかり卑屈になった。

「なんなの、なんで何も言わないの、ほんと肝心なことはいつも私が決めていますよね、ほんとうに卑怯です、自分のことくらい自分で決めたらいかがですかそれが道理ってものでしょう?自分で決めることと、人に決めてもらうこと、それぞれに程度ってものがあるでしょう?あなたにはその程度ってものが分からないんでしょうか、間違ってる、間違っていると思いますよ、私は」

そうしてサモエは半ば乱暴にアンを背負い、歩いた。夜が次第に終わっていく、その時間から逃げるようにサモエは歩いた。森は静かであった。サモエの少し早歩きの足音が他のあらゆる音を殺しているかのようにザッザッという音だけが乾いて響く。サモエは歩いた。歩くことを止めてはいけないと思った。このまま足がすり減って身体の全部がすり減ってしまうまで歩き続けてしまいたいと思った。立ち止まるとまた「なぜ?」という声が頭を埋め尽くしてしまうことが明らかであったからだ。この脳みそなど腐ってドロドロになってその思考する力など無くなってしまえばいい。そうならないのであればせめて私が願うことだけを考え、私が願うまで考え始めないでほしい。

サモエは歩くところまで歩いた。いつしか森を抜け、このまま歩き続ければ海に身を投じることになるところまで歩いてきた。少し白んできた海はサモエのことを手招いているようにも追い払っているようにも見える。サモエはぼぅっとその海を眺め、吸い込まれるようにまた歩き始めた。何かにぶつかった。そう思った瞬間にあたりは黒々とした炎に包まれた。火車が立っていた。サモエは特段驚きもせず、焦りもせず、たじろぎもせず、ただ冷静に淡々とアンを背中から降し、その隣に座り込んだ。火車は何かをするわけでもなくただ動かずに立っていた。

「火車よ、あなたはどうしてこの人を落としたの」

「・・・・」

「死体は落とされたらみんな話したり動いたりするようになるの」

「・・・・」

「この人は、なんで急にただの死体になっちゃったの」

「・・・・」

「連れてくの?」

火車はうなづいた。そしてサモエに向かって右手を広げた。

「渡せって?奪えばいいじゃない、そういう妖怪でしょ、あなたは」

「・・・・」

「私が、この人を、あなたに渡せって言うの?」

火車はうなづいた。大きな右手は微動だにせず、ただ待っていた。
サモエはそれから長く黙って、そして抑えきれなくなった涙が溢れた。

「どうして・・・」

「・・・・」

「どうして、私が渡さなきゃいけないの・・・」

「・・・・」

「無理やり取っていけばいいじゃない、妖怪なんだから・・・」

「・・・・」

「どうして・・・なんで・・・なんで私なの・・・」

「・・・・」

「なんでこの人は死んだの・・・」

「・・・・」

「なんでこの人は帰ってきたの・・・」

「・・・・」

「なんでいきなり喋らなくなったの・・・」

「・・・・」

「ねぇ、なんでよ!!なんでって!!聞いてるでしょ!!私が!!聞いてるでしょ!!答えて!!」

サモエは泣き喚いた。下唇を強く噛んで、ボロボロになった足を何度も殴った。髪をかきむしって、二の腕を強くつねったり、石を拾って火車に向かって思い切り投げたりした。声にならない叫び声と、時々強く「なんで」と問いかけるサモエに応答するものは何もない。その間も火車はぴくりとも動かずにただ右手を差し出したままだった。

サモエが一通りの自傷行為を終え、ただ切れた息を聞き、身体中の痛みを遅れて感じていた最中、朝日がじわりと登り始めた。

火車の炎の隙間から差し込むその光を見てサモエは咄嗟にアンのことを心配した。

朝日を浴びて罪悪感にいっぱいになったアンのことを思い出した。アンを朝日から遠ざけなくてはと思った。

そして、別にもうその必要はないことも思い出した。そのわずかな瞬間がサモエに今を与えた。

サモエは立ち上がり、アンを丁寧に抱き抱え、火車の右手にアンを預けた。火車はしっかりとアンを握り、ふわりと浮き上がった。火車はゆっくりと空に向かって昇っていく。その姿から目を逸らしたいという気持ちと、目を離したくないという気持ちの狭間で生まれた渦巻きはそのまま抱え切れず、サモエの喉を通って、アンの名前を呼び続けさせた。

「アンーーー!アンーーー!アンーーー!もう帰ってくるなよーーー!アンーーー!アンーーー!二度と、帰ってくるなよーーー!死ねーーーー!アンーーー!アーーン!よく寝ろーーー!アンーーー!よく食えーーーー!酒は飲みすぎるなーーーー!そして、ちゃんと死ねーーーー!アンーーーー!アンーーー!アンーー!アンーーーー!アーーーーーーーーーーーーン!!戻ってこーーい!!アーーーーン!行かないでーーー!アンーーーーー!アンーーー!アンーーー!お願いーーーー!置いてかないでーーー!アンーーー!アンーーーー!アーーーーン!私も殺してくださいーーー!!!アンーーーー!アンーーー!アンーーー!いっちゃやだーーー!アンーーー!馬鹿ーーーーー!アンーーー!アンーーーーー!アンーーーーー!アーーーーーーン!アーーーーーン!また会おうなーーーーー!」

すると、サモエの肘がひとりでに舞い上がる。最初はさよならを告げるためだったが、それは次第に何故だか最初の意図とは外れて縦横無尽に駆け回りはじめた。これは人間が鳥であった頃の名残なのかもしれない。もう今はない羽を想ってふとした瞬間にまだ羽ばたけると思い違いをしているのだとサモエは思った。しかし、肘の細かなひねりはそのまま胸部をひねり、その螺旋は骨盤へと伝わる、すると骨盤のひねりは遠心力を生み出して重心をぐらつかせる。このぐらつきは安定を求めてつま先を安定するポイントめがけて放り投げる。その間にもう片方の肘が遊び始めた。身体は複数の渦巻の処理に追いやられ、理性で筋肉を緊張させない限りはこの渦巻は身体を駆け巡る。くるくると回り続ける身体につられてなのか身体を包む風が肌をかすめたり埃を舞わせたり耳元でびゅうっと話しかけてきたりする。風の報せとはこのことなのだとしたら面白い。風が内耳を通って鼓膜を撫でると、その振動はサモエにイメージを呼び起こさせた。ろうそくで炙り出された手紙の文字が読めるように、脳内にはあるイメージがサモエの願いとは関わりなく燃え広がっていく。それは、やはりアンのことであった。これはきっとサモエが死ぬときにもう一度見ることになるであろう走馬灯を予習しておけということなのかもしれない。サモエの感情的な抵抗とは裏腹に、アンの景色が燃え広がっていく。サモエはダンスをやめてしまいたいとも思ったが、この燃えるような悲しみに今しばらくこの身を預けておくことでサモエは光るのかもしれない。サモエは次第に、止めてなるものかとムキになった。何よりこの記憶が、また明日からはじまる果てしない日常にしゃぶりつくされて飴玉のようにいつしか元の形も分からなくなってしまったらムカつくじゃないか。これが、サモエとアンに残された本当に最後の時間かもしれないと思い、サモエはしぶとくも、もう少しだけアンの死を遅らせてみようと試みたのだ。心を決めて、サモエは風の報せに耳を傾けた。風がどこからやってくるのか知らないけれど、私の身体と踊ってくれるし、話し相手になってくれもする。風は気まぐれに報せる。サモエはアンの感触を握りしめて放さないようにダンスを続けた。

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