ピンホールメガネ、半額弁当、愛しのあの子
弔辞。
拝啓、齋藤りょうた様
季節が移ろうマージナルな季節のただ中。
あなたはそのおぼつかなさのうちに、時間を止めてしまいました。
わたしは、あなたのことを「あなた」と呼んだためしがありません。
この場では、やんごとなき都合から、原則「あなた」と呼ばせていただきます。
ですが、やはりあなたのことをいつも呼んでいたように呼びかけなくてはあなたへ届いている気がいたしませぬゆえ、一度、いつも通りに呼ばせていただきます。
ピンホールメガネちゃん。
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わたしがあなたと出会ったのは2003年の5月。
わたしのからだの細胞ほとんどがセイユーの半額弁当で作られていた頃です。
いつもにもまして、ふつうの日でした。
わたしはふつうに日常が流れていくことに、飽きていました。
あぁなるほど、これが「死にたい」という気持ちか、とわたしは初めて実感しました。
朝は6時半に起き、寝ぼけなまこで顔を洗い、晩飯に食べた半額の「よくばりバリュー弁当」の残りをミッフィーちゃんの弁当箱に詰める。最低限の化粧を済ませ、8時には家を出る。東急東横線は始発駅とはいえ人間が詰め込まれ、運ばれる。わたしは押し寿司を演じることで渋谷まで過ごす。あなたはわたしの押し寿司の演技をほめてくれました。
電話対応と、物件の図面修正、オーナーさんとのリフォーム関係のあれこれをしているうちに退勤時間がやってくる。しかしわたしは誰よりも遅くまで残るようにしている。無理やりにでも仕事を捻出してはデスクトップとにらめっこ。ブルーライトがわたしの水晶体をくすませていくのが分かる気がする。
帰りも見事に押し寿司を演じきったわたしは駅を降りて目の前にあるセイユーに立ち寄って、「よくばりバリュー弁当」か、「色とりどりボリューミー弁当」を半額で買う。これまで自分で死ぬ勇気など持ち合わせていなかったので、少しでも死に近づくことができるであろう習慣をつけることにした。それが「残業」と「半額弁当」であった。
2003年5月は、めまぐるしい1ヶ月となりました。
それは他でもない、あなたがレジでお会計をしてくれたからです。あなたはわたしが買った「よくばりバリュー弁当」をピッとしたあと、それをしばらく眺めこう言った。
「これ、食べきれるんですか?」
「いえ、食べきれません。」
「捨てるんなら、僕にください。」
「いえ、捨てません。」
「・・・・」
「・・・・」
「ほう。」
「残りは次の日のお弁当にいれます。」
「なるほど。よくわかりました。」
「よかったです。」
「身体に悪いですよ?」
「そう思います。」
「あ、意図的。」
「ええ。」
「家どこですか?」
「リバーサイドです。」
「・・・・」
「来ます?」
こうしてあなたはわたしの家に半ば住むことになりました。
結局、わたしはあなたにとって、支配者だったのか、飼い犬だったのか、今となっては確かめようがありません。
あなたはわたしの家でずっと本を読んでいました。ダイソーで買ったというピンホールメガネをかけて、『春琴抄』をよく読んでいました。あなたといると、わたしは視力がよくなりました。
「科学的根拠がないよ。」
そうあなたはピンホールメガネをかけながら言いました。そんなあなたとわたしは似ている気がしました。あなたにとってのピンホールメガネと同じように、わたしにとってあなたはピンホールメガネでした。
だからわたしは少々発音の経済性を切り捨ててまでもあなたのことを「ピンホールメガネちゃん」と呼ぶことにしました。
生きることに効率を見いだすあまり、生きる気力すらも削ってしまったわたしにとって、発音にエネルギーを使うことは生きていることを実感できました。
あなたのことをもっと知りたくなりました。
1つ穴をあければまた1つ、また1つ、また1つと穴をあけたくなりました。
いつかすべての穴がつながって、1つの大きな穴になるんじゃないか、そんな期待を持ちました。
「ピンホールメガネちゃん。」
「はい。」
「どうしてそれずっと読んでるの?」
「『春琴抄』」
「うん。」
「愛しのあの子が好きだから。」
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あなたは何度聞いても「愛しのあの子」としか言いませんでした。今となっては「愛しのあの子」が誰なのか、いたのかどうかすら確かめようがありません。
わたしはこの穴をあけたかったのです。
わたしの知的好奇心が、あなたをリバーサイドから遠ざけた。
途端に視力が落ちた気がしました。
何も見えない気すらしました。
最後にあなたがリバーサイドに来た時は、パジャマを引き取りに来た時でした。わたしの目の下のクマを心配してくれたのか、あなたはわたしにピンホールメガネをくれました。
「科学的根拠はないよ。」
それがあなたの最後の言葉。
試してみましたが、ピンホールメガネをかけるより、コンタクトレンズの方がよく見えます。あなたの根拠なきピンホールメガネへの執着が、結果的にわたしの視力を取り戻してくれました。感謝しています。
半額弁当で出来た女は、ピンホールメガネを捨てました。
今日はそちらの報告と、さよならを言いにきました。
ありがとうございました。
またどこかで。
2004年5月5日
竹下なおみ