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TureDure 17 : 『Impro for Storytellers』の「Introduction」

ほりこーきのお送りするTure Dure。今回は私が専門とするインプロの書籍の中から『Impro for Storytellers』の「Introduction」をご紹介します。

本書を書いたKeith Johnstone(キース・ジョンストン)はイギリス出身のインプロの創設者・指導者であります。彼が作り上げたインプロは俳優訓練から始まり、劇作法、人材育成、学校教育、医療・介護の分野など演劇に限らない領域で実践をされています。

インプロにはおびただしい数のゲームがあります。ルールはシンプルで、演劇をやったことのない人であってもすぐに楽しく取り組めて、かつインプロの重要なマインドやテクニック、思想を学ぶことができます。インプロの教え方は主にこうしたゲームに取り組んでいくことがその主要な活動となります。極端な話をすればゲームのルールを分かっていれば誰でもインプロを教えることが可能な非常に民主化された演劇です。演劇に限らない領域への実践のしやすさもその民主的性格が少なからず影響していることと思います(キース・ジョンストンのインプロの研究者であるダデック氏はそのことを“Accessbility”という言葉で表現しています)。

一方で、ゲームのみが一人歩きすることによってインプロ実践者の量的拡大は可能となりましたが、キース・ジョンストンがどのような思想を持っていて、なぜそのゲームを開発したのか、あるいはなぜインプロというものに取り組んだのか、そうした問いに取り組む実践は依然として乏しいのが現状です。もちろん実践が豊富にされることは重要なことですが、私の興味関心は研究的蓄積を残すことにあります。

私はインプロは1つの解放の思想だと直観的に感じているのですが、解放の思想はそれを可能とする理論があることでその強度を増します。一時の高揚感を伴うだけの解放ではなく、10年後の人たちが建設的な批判的検討を重ねられるように、私は解放の理論を語る言葉を見つけ出していきたいと思うのです。

いずれいるかもしれない誰かの歩みを止めないためにも、インプロおよび即興研究を可能とする言葉の生成につとめたい。

そんなこんなな思いを抱きつつ、「キース・ジョンストンって本当はどんなこと言ってるのさ」ってことにアクセスするのを少しでも楽にするような期待を込めて、通称『ストテラ』の冒頭「イントロダクション」の試し訳をしてみました。誤訳などあればご指摘ください。

私にとってこの「イントロダクション」は非常に原点に立ち返らせるものであり、同時にキース・ジョンストンのインプロ思想の根幹がわかる部分だと思っています。それでは、お楽しみください。

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Impro for Storytellers : Theatresports and the Art of Making Things Happen

より 

「Introduction」

ベンヤミン・コンスタントが家庭教師と言語を発明する遊びを始めたのは4歳の時だった。2人は近辺を歩き回り、あらゆるものに名前をつけていった。そして文法を作り出し、音声を記すための記号までも作り上げた。その遊びがギリシャ語を学んでいたのだとベンが気づいたのは6歳になった頃だった。(原注1)
私たちが代数はこれからどんどん難しくなるぞと脅された一方で、アインシュタインはこう言われたのである。“X”(筆者注:未知なるもの)と言われているクリーチャーを捕まえるんだ、君がクリーチャーを捕まえたあかつきには、そいつは君にK.J.って名前を伝えなくちゃいけない。
学ぶことを愛すべき活動となるように。

ラースロ・ポルガー

夕ぼらけの中でも、おかしな歩き方のせいで私だと分かってしまうことや、うまくキャッチできなかったり、不格好な投げ方や、水に入れば沈んでしまうことが私は恥ずかしかった。私は、私の考えが聞かれるに値しないものだと思っていた(発話が聞き取れていないとは気づかなかった)。ある事を忘れてしまったらそれを思い出すためにうろうろ歩き回らなくてはならないくらいには私は社会的に不器用だった−あてどなく変にズカズカ歩いてるんだと見られたいわけではない。

“姿勢のトレーニング”はもしかしたら支えになったのかもしれないが、ジムの先生はアスリートのことばかり気にかけた;歌うことはもしかしたら呼吸を改善してくれたかもしれないが、私はただ周りに合わせて口を開くようにとしか言われなかった;リラクゼーション・エクササイズはもしかしたら私の緊張を解いてくれたのかもしれないが、私は“もっと頑張れ”と励まされた。私たちの先生方は私たちが学校に“誇らしいこと”をもたらすことを期待している。だからもしカジモドが素晴らしいクリケット選手なら先生方は喜んだだろうし、背中のこぶに対して何も気に留めなかっただろう。

ある人は社会的な圧力というものは異常を取り除いてくれるのだと思っているかもしれない;しかし、他人とコミュニケーションを取るのはそれだけでストレスフルなことだ(誰かが部屋に入ってくるたびに血圧は上昇する)、だから私たちの不安を軽減してくれるものは何であってもまたたくまに浸透する。愛想笑い、唇を強く結ぶこと、聞く代わりに次に言うことを考えることがもし功をなしたら、私たちはその行為を繰り返す。それはやがてその行為が“私自身”だと思われるまで繰り返される。これはまるで私たちが、自分の姿勢や声を“私自身”だと信じていることに似ている。

私は“居残り教室”にいさせられていた時、私が学習することを学校側が拒絶したことに対して怒ったことがある;“私が円唇母音を発音できないなら、私が熊みたいにのろまなら−どうしてそれは先生の責任じゃないのか?人間であることと比べて、1936年におけるフエゴ島の羊の数についての何がそんなに重要なのか?関係性って何なのか?シャイって何なのか?恐怖って何なのか?私にはスピーチセラピーが必要だって言っておいてそれが何なのかということやどうすればそれが受けられるのかを言ってくれないのはどうしてなのか?” 時間が来て、何度も下校するよう言われるくらいまで私は躍起になっていた。

私は“ドラマによる自己変革”と呼ばれていたものを求めていたし、それは正しかった。もし体重を骨に載せることができていたら筋肉はずっと私を持ち上げておくことはなかっただろう。もし“身を任せる”(原文:”let go”)ことや、明瞭に話すことを学ぶことができていたら、私はそんなに苦しまずに済んだだろう。

地理学科の学生は目を細めがちだし、数学科の学生は自分の意見をぞんざいに扱いがちだ。このことは関連のあることだと思われてはいないけれど、ドラマはすべての人のことを考える必要がある。ドラマの先生(学期末にある盛大な発表会に忙殺されていない人)は生徒に異なる“自分”を経験させることができる:シャイな人は自信に満ちた人に、神経質な人はよりくだけた感じに。このことを理解しているアカデミアはドラマを“単なる娯楽の1つ”だとして軽んじない。

戦争によって減った教師を補充するために緊急に開設された2年間の課程に私は入った(私は大学に入学するほど“よくできた”人ではなかった)。そこでは声や姿勢を矯正する内容はなかったので、私は教え始めてすぐに話すことができなくなってしまった。ゴールデン・スクエア病院−かつてウィリアム・ブレイクが住んでいた場所の角にある−で過ごした時間がこれまで出したことのなかった音の出し方や、死ぬまで気づかなかったであろう欠点を知らせてくれた。

幸運にも私は人生の多くを私の先生方が気にかけてこなかったスキルを教えることに捧げている。私はネガティヴな人にポジティブになること、知的な人には普通になること、追い詰められている人にはベストを尽くさないことを奨めている。私が“才能ある”俳優に対してと同じほどに“落ちこぼれ”に対して注意を向けることに人々は意表を突かれる。

ジョージ・ディヴィーン(D’veenと発音する)はロイヤル・コート・シアターの芸術監督であり、そして劇作部門の運営のため、劇場の教育活動の監督のため、そして演劇の演出のために私を雇った人物だ。

中等学校高等部の団体が1週間にわたって劇場に訪れた。生徒たちはアーティストたちに会ったり、夜には上演を観たりした(プロレスの試合もここには含まれている)。教育委員会のドラマ指導員の2人(ジョン・アレンとルース・フォスター)が“最終日のふりかえり”に同席した。そこには12名の18歳の男子生徒が出席しており、私を睨みつけ、つまらなそうにしていて何にも無反応だった。私は参加した他のグループは劇場にいることが楽しそうだったけど“君たちはどれくらい稼げるのかにしか関心がないと聞いたよ”と告げた。

私はグループを煽り続け、ついには1人がうなった:“演劇なんて何の役にも立たないんだから、なんでわざわざ学ばなきゃいけないんだよ?”
私はこう返した:“演劇とは関係性のことだ。ナンパの仕方を教えようか?”
彼らの内の2人が距離を縮めてきた、1人は顔が赤くなっており、1人は青ざめていた。どちらが小突いてきたのかは覚えていない。彼らは物憂げな様子で口々に叫んだ。“ナンパはモテるかモテないかの持って生まれた才能だ!”。突如として彼ら皆怒り狂ったように話し始めて、仕事が好きな人がいる職場や、お金のこと以外のことを気にかけて仕事していることは異常だと述べた。加えて、いかに彼ら自身が好きでもないクソったれな仕事に従事する運命にあるのかを述べた。ついに矛先は同席していた指導員たちに向かい、彼らが通う学校の抑圧に対して怒りをぶつけた。このミーティングは4時30分に終わる予定だったが7時30分まで続いた。

この出来事は指導員2人に感銘を与え、教育省主宰のドラマ・アドバイザーのための夏期講習(ストロベリー・ヒルで開催)でワークショップを何年もすることになり、大ロンドン議会における応用ドラマ指導員のグループにも行った。毎年行われるロイヤル・シェイクスピア・カンパニー主宰の演劇祭のサマースクールでも教え、数百回におよぶデモンストレーションを学校や大学で行った。

イギリスを去るまで私はロイヤル・アカデミーに雇われ、それを期にあらゆる演劇のコースをあらゆる国の演劇学校で担当した、そこにはデンマーク国立演劇学校で(断続的に)教えた15年間も含まれている。ISTA(国際演劇人類学会)がサマースクールのテーマに即興研究を設定した時に招いたのはダリオ・フォーとグロトフスキーと私だった。それぞれに1週間ずつのワークショップを開催した。

私が今でも教えることが楽しいと感じていることに人々は驚くのだが、まだほんの少ししか学んでいないのになぜ楽しくなくなるというのか?

ディヴィーンがロイヤル・コート・シアター・スタジオを設立した際に、彼はそこで教えるようにと私を招聘した。広報資料にはすべての“演劇的な職を持つ”人に対して“刷新するコース”とものされていた。けれども私には何を刷新すればいいのか分からなかった。

私は、瞬間、瞬間に、“生きている”(“演劇の剥製”から出てきたようじゃない)俳優をよしとしたので、“先生からやめろと言われてきたことリスト”を壁に貼り、それをシラバスとして用いた。私の先生方は何百年もかけて有効性が証明されてきたテクニックを用いて私たちのスポンタナエティを壊さねばならなかったのだから、それらの方法論をひっくり返せばいい。私は1度に1つの物事に集中するように言われてきたので、私は注意を散漫させる方法を探した;先読みするように言われてきたので、私は2つ先の言葉を考えることを難しくさせるゲームを作った。“コピーすること”はズルイことだと言われてきたので、私は人々に互いを真似し合うようにさせた。変な声を出すことはタブーだったので、私は変な声を出すことをよしとした。“独創性”と“集中力”は褒められてきたので、私は“もっと平凡なことやって!”とか“もっとつまんないことやって!”とか“集中するな!”と叫ぶ悪名高き演技指導者になった。

こうして“ひっくり返したもの”の多くは今や“クラシックな”ゲームとして知られている(まるで古代ギリシャから伝わっているように)。それらはたちまち私たちを1日中笑わしてくれるほどの働きをしてくれた。しかし、本当に私たちは人を楽しませられるのだろうか?私は他の即興の実践を(スタニスラフスキーのクラスを除いて)知らなかったので、私たちのワークの正しさを証明するには勇敢な即興する戦士たちと舞台に立つほかなかった。

ディヴィーンは演劇制作の過程を他の人にも見えるようにしたがっていた(オリバーをはじめ友人の中には賛同しない者もいた。オリバーは“魔法を維持”したがった)ので、少なくとも1名はオブザーバーとして稽古を見学してもらった。ブリティッシュ・カウンシルは新しい俳優育成の方法を見たがっている外国人を数名派遣していた(他に誰がその人たちを喜んで迎えるだろう?)、それもあってか私の即興のグループ(シアター・マシーン:原文“the Theatre Machine”)はすぐに海外ツアーに招待された。上演がよかった時の劇評では私たちはチャップリンやキートンと比べられていた。

原注
1.彼は後に『アドルフ』を執筆し、スタール夫人(筆者注:アンヌ・ルイーズ・ジェルメーヌ・ド・スタール)のパートナーとなる。

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