六本木、老夫婦、寒中水泳
「明日は寒中水泳の日です」
かおりはホームルームで武尾先生から聞いたその言葉にシンプルに嫌だなぁと感じていた。
新年を向かえ、かおりは春から東京の大学で法学を専攻する。早くに親を交通事故で亡くしたかおりは母方の祖父母に育てられて育った。2年間浪人生活をした。大学受験の日にはホルモンおにぎりを握って持たせてくれた。かおりは心から祖父母に感謝していた。
かおりの住む地域には昔からの伝統で、住民総出で寒中水泳をする習わしがある。どうやらかつてこの地域は塩害がひどかったそうで、村の男が海の神のもとへ泳いでいき、塩害を緩和させるよう頼み込んだという民話がきっかけだそうだ。かおりの祖父母は数年前からその先導役になっており、毎年張り切ってかけ声をあげていた。
嫌だなぁ。
祖母である、「三樹」は最近体調を崩し気味であった。
日中はずっと家で寝ており、朝にかおりのお弁当を作りかおりを見送ったあとは基本的に寝ている。なにか用事のある人は「三樹」を起こしに来なくてはならない。
かおりが帰宅すると、家には祖父である康夫しかいなかった。康夫はお茶をすすりながら空を見上げていた。
そして
午後8時
「おじいちゃん、おばあちゃんは?」
「……」
「明日の準備にしても遅すぎでしょ」
「……」
「おじいちゃん、」
「……」
「おばあちゃんは?」
「……」
「……」
「六本木。」
「っはぁぅ…………………………………」
翌日、まだ朝日も昇らない内にかおりは六本木へと向かった。
「三樹」は小さい頃から東京で暮らし、康夫と結婚するために田舎へきた。寒中水泳のことなど知らされず、来た当初は泣きながら「六本木のディスコ、六本木のディスコ」と喚いていたと母からよく聞かされていた。今から向かえば六本木のクラブのクローズに間に合うはずだ。
ズゥンチッ ズゥンチッ ズゥンチッ ズゥンチッ…
六本木のクラブ、「1owK」に着いたかおりは鼓膜を直接叩くような重低音に身体中の液という液に波紋が広がるのを感じた。VIP席には外国人たちが高そうなお酒をガブガブと飲んでおり、重低音の流れに合わせて身体をスルッとしたりクネクネッとしたりしている。
今日は平日ということもあり、身動きが取れないわけでもなく、比較的悠々とフロア内を歩くことができた。かおりは慣れていない空間への恐怖心とは別に妙な親近感を覚えた。自分の居場所はここなんじゃないかとすら思えた。
重低音と眩しいレーザーが自分の音や光をかきけして、ボヤァとわたしが霧散していくように感じた。なるほど、これが人間だ。
かおりはドリンクチケットでハーパーウィスキーを頼み、飲んだ。音も光も理性も溶けていく。気づけばかおりは休憩スペースに座り込んでいた。カランッと隣で氷とグラスの引き合う音が聞こえた。
三樹がかおりのハーパーを飲んでいた。
重低音も光も濃度を低くした休憩スペースで、かおりの理性の濃度は増した。
「おばあちゃん……」
「やめてよね。この場所じゃあたしとあなたが何等親かなんて意味がないんだよ」
「三樹、さん」
「いいね、さんが無ければもっといい」
「三樹……」
「かおり、よくここが分かったね」
「たっちゃんから聞いた」
「あのお喋りめ」
「もう帰ってこんの?」
「帰るよ、今日は寒中水泳だからね、でも、もう少し」
三樹はかおりの隣にハーパーを置いて立ち上がり、スタスタと休憩スペースの入り口かつ出口へと歩いて行った。立ち去りながら、少しかおりの方を見て、
「楽しみなよ、ケィオリ!」
と言って、三樹は最後のスパートをかけにいった。
かおりが一人になるのを窺っていた男が数人かおりの前にクネクネと現れたが、かおりには三樹のことしか頭になかった。腰に手を回して来た誰かの腕には残りのハーパーをかけてグラスを持たせておいた。
重低音と光のビームの中に渾然と踊る三樹と一緒に、ベレー帽を被ったおじいちゃん。
この老夫婦と呼ぶべき二人をかおりは少し眺めて、1owkを後にした。
「今日は寒中水泳です」
武尾先生と実行役員の中に三樹はいなかった。
過疎化の進んだ村通しが1年に1度集うこの寒中水泳。
お気に入りの水着を着たかおりのことを隣村のようすけくんがじっと見ていた。
かおりと目が合うとようすけくんは慌てて武尾先生の方を見直したが、黒目をコントロールする術をようすけくんはまだ身につけていないようだ。かおりはクスリと笑う。
かおりの中にはまだ重低音が残っている。