見出し画像

TureDure 10 : 妖怪のたたずまい、ぜんぶで四つ ー 静かな春に綴る百鬼夜行。

ほりこーきが、勝手気ままにつれづれに、ただ思いついたことを物す裏も表もなんのそのなパルプ随想録「TureDure」。そーいえば「TureDure」の読み方は"とぅれどぅれ"なんです。そう呼んでください。

静かな春の夜長にお送りする第10回の今回は妖怪について。妖怪が映し出す私たち人間の在り方について。妖怪が生まれたそのところについて。

もうほとんどドグマなので、悪しからず。私の妖怪知識は水木しげると地獄先生ぬ~べ~由来なのだから。
そんなこんなでHere we go!

@@@@@@@@@@@@@@@@@

まず、妖怪はいる。

それが僕の立場だ。ただし、一般に私たちが"見る"と呼ぶ知覚の仕方では妖怪はいない。
では妖怪はいかにして"いる"のか。
それは、視覚とも聴覚とも嗅覚とも触覚とも言えない身体全体が何かに飲み込まれる時に起こる知覚。
それは、僕の個人的な分類をすれば4つの知覚の仕方、あらわれの仕方がある。
「畏れ」、「憑かれ」、「外れ」、「己れ」だ。

「畏れ」:もうこれが妖怪の源です(と思う)。

妖怪のあらわれとして最も包括的。もう分類せずともこれでいいくらいなんだけど、それだと書き続けられないので細分化したけど、もう基本これです。この知覚が起きた時、妖怪がいる。

人間はひどく臆病な動物だ。1個体VS1個体では中型犬にも勝てない。勝てたとしても何かしら道具を使う。ということで人間はチームを作って分業して道具を使ってマンモスまで狩ることができるようになり、知能もなぜだか高くなり、食物連鎖のテッペンに君臨した。これぞ臆病者の戦い方。

もちろん現代の私たちはそんな臆病さを忘れてしまえるくらいには豊かに、安全に暮らせている。街中でオオカミに襲われることもない。山や川、海は重機で切り開くことができる。

しかし、そんな呑気になった僕たちでも、ある時、ある場所でゾクリとすることがある。まさか野獣がいるわけはない。人の殺意とはまた違う。場違いな宴会でつい失言をしてしまって沈黙と注目を喰らった時のばつの悪さの最上級のような感覚。

このままではごめんなさいでは済まない。そのことは分かる。ひやりと脂汗が滲む。逃げ出すにも背を向けてはいけない気がする。しばらく動かしてもらえない。そんな思いが血液よりも速く身体中にほとばしる。この時、私たちはたしかに妖怪を"見ている"。

この時の知覚が「畏れ」。山や海や川や空。あるいは神木、あるいは鏡、あるいは刀。こうしたただの遊び半分で関わってはいけないものを僕たちは区別してきた。こうした対象へ関わるには許しと感謝を捧げなければならない。そうしなければ、生命が危ぶまれるからである。ちなみに、この「畏れ」を軽減する努力が自然科学である。自然科学はあらゆる操作不可能性、予測不可能性の中にある原理・原則を取り出してみせる。こうしてかつては「畏れ」の対象であったものを因果推論で説明してみせる。プリンキピア~♪

ちなみに妖怪が跋扈した平安時代、もののけは「人知を超越するもの」くらいの意味でしかなく、これといった形が与えられていたわけではなかったそうな。形や名前がないというのが最も恐ろしい恐怖のあり方だからさぞ「畏れ」に満ちた頃だったのだろう。江戸の浮世絵師の鳥山石燕が与えた説明と名前と形は「畏れ」の軽減に一役買っていることだろうと思う。
こういった「畏れ」を効率よく奪う戦略の1つは“消費すること”だから。

「憑かれ」:システムエラーとしての妖怪。

「憑かれ」は「畏れ」に喰われることだ。
このままでは自分よりも大きな"何か"に喰われてしまう。その感覚にノると、憑かれる。しかし、人間はその"何か"ではないので、消化不良を起こす。「畏れ」そのものには大抵はなれない。なので「畏れ」のエラーシステムが表現される。

「◯◯憑き」と呼ばれる現象は憑かれの典型例で、ふぐりが腫れたり(狐憑き)、途端に物事にひどく固執し始めたり(鼈憑き)する。あるいは意識が剥がれたようにあられなく動き回ったり("いそがし"に憑かれたと言う)。これは、まるでその人がどこかに置き去りになってしまっていて、何か別のものにパクりとされてブンブン振り回されているような感覚になる。ここにも僕たちは妖怪を"見る"。

一方で、自分自身に喰われるという「憑かれ」のあらわれもある。妬み、憎しみ、悲しみ、恐れ、不安。そうした僕たちが僕たちの中に住まわせている感情。特にひどく僕たちを狼狽させる感情に自らを喰わせることで「憑かれ」る。般若、産女、ぶるぶるなど、僕たちの肥大した感情に僕たちは妖怪を"見たり"する。

「外れ」:排除の論理としての妖怪。

ここからは少々気の重くなるような妖怪のあり方、知覚のしかたを考える。「外れ」とは、「悪いもの」・「気色の悪いもの」・「関わってはいけないもの」としてある対象を扱うことによって妖怪として“見る”。主体的に妖怪を知覚するしかただ。これは差別・排除・暴力を肯定するための論理として、僕たちの価値観に巣食っている。そうして誰かを「妖怪」と“みなす”知覚のしかたが「外れ」である。

かつて「河童」と呼ばれた“妖怪になった人間”がいたかもしれない。「小豆洗い」になった青年、「座敷童子」になった少女がいたかもしれない。どこかの村を追い出されて新しい村に来た家族や、ある特別な秀でた能力を持って産まれた子供たちが「外れ」として妖怪とみなされる。

もしかしたら「憑かれ」も「外れ」の同一線上にある知覚のしかたかもしれない。
いずれにせよこうした人間の持つ排除や暴力の論理が妖怪を生むと、僕は思っている。明確に「妖怪」と呼ばれなくとも、「妖怪として」扱われるという状態は十分にありうる。妖怪とは人間でない人間が生まれるところでもある。

「妖怪人間ベム」では、まさに人間が生み出した「妖怪人間」が「はやく人間になりたい」と言って人間に悪さする妖怪を退治することで人間コミュニティに受け入れられようとしたり人間になる方法を見つけようと奔走する話だ。しかし、何より彼ら自身が「妖怪であること」とによって「人間であること」が全否定されることが物語の要所要所で突きつけられる。結果、彼らの「妖怪性」が彼らから剥離し、「人間」になれる方法を見つけた時は、燃え盛る炎の中で死を待つ時の間であった(物語的には彼らが死んだとは明言されていない)。

「己れ」:リフレクションとしての妖怪

「外れ」という妖怪の知覚のしかたまで読んでいただいた人は感じているかもしれないが、「人間を人間としてではなく妖怪として扱うなんて、そんな我々こそが、何より妖怪じゃないか」と思われたかもしれない。この知覚のあり方が「己れ」だ。「妖怪」を生み出したのが人間なら、人間こそが「妖怪」の生き写しであるとも考えられる。妖怪を調べようと思ったらそこには自分たちのことが載っていたなんて、ベタなオチですが、私はこの自分自身を妖怪化する/畏れる再帰的な知覚を「己れ」と呼びたい。
自分自身の中にある“何か”を感じること、そこに“畏れ”を感じながらも見て見ぬふりをするのか、その「畏れ」と対峙するのか。その「畏れ」を自分自身で喰らい、自分自身に「憑かれ」、自分自身を「外れ」、自分自身を妖怪として知覚する「己れ」へと巡る。
自分自身を妖怪として反省する。こちらから発したビームが鏡にはね返ってくるようなリフレクションとして“妖怪”はいる。

妖怪は僕たちを内側から折り返すようにケラケラと笑ってこちらを“見ている”。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?