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ピュシスを覚えているか

「カフェ 古猫」にて。あっちはカフェモカ、こっちはエチオピア。
音楽はドン・シャーリー『Georgia On My Mind』。
ぬるんとしながらピカピカしたコーヒーカップにミルクを足そうとした。

「いつだって最後はミルクを入れるよね」

「もったいなくない?せっかくあるのに」

「単価なんてたかが知れてるでしょ」

「うわ、やなやつじゃん」

「好き好んで入れるならいいんだけど、もったいないから入れるのって不誠実だとは思わない?」

「ミルクを入れることだけで自分の人間性を推し測られてもな」

「へへ」

「君だっていつも最後は「へへ」っていうよね」

「かわいいでしょ?」

「かわいい」

「わたしたち、付き合わない?」

「え、え、まじ、え、何」

「もしかして、言う準備してた?」

「あ、いや、え、え、いや、別に」

「なんなん、わかりやすくパニクってんじゃん」

「いや、当たり前やろがい」

「そんなに唐突かな、君がコーヒーにミルクを入れる前からの会話からもうほとんど暗示されていたとばっかり思っていたが」

「いや、たしかに楽しかったが」

「楽しいって時がいかに貴重で得がたく、唯一無二かわかっていないようだな、そんな誰とでも楽しい時間が生成するわけではないぞ」

「楽しい時間であればあるほど、それを壊したくないじゃないか」

「君は分かっていないな、そうした態度こそが楽しい時間というものを壊すのだよ、ビビってるのか?」

「いいか、付き合うというのは、今よりさらに親密な関係になるということだとわたしは解する、とすれば君と楽しい時間を共有してばかりではいられないかもしれないという私の検討を尊重してくれないのか、君は」

「たしかに、パートナーシップというものはそんなに易しいものではない、なんたって殺人事件のほとんどは痴情のもつれだからな、楽しかった最高の時間が地獄のような最悪な時間になってしまうこともありうる」

「そうだ、それがいやなのだ、わたしは、君もいややろ?」

「そうね、人を殺したくはないかな」

「なんでわたしが殺される側なんだよ」

「?」

「そんなかわいい顔しても無駄だぞ、わたしはやるときはやるぞ」

「きゃーこわーい」

「君は不安じゃないのか」

「あたりまえだ、君との時間は楽しいからな」

「おいおい、今までの議論がまったくノーダメージじゃないか」

「バカだな、論理でどうにかなる話なわけないだろ、はなから問題の立て方が間違っているのさ」

「君の思いを少しでも言語的に理解したいのだよ、さぁもっと聞かせてくれよ」

「ふん、わざと居丈高にふるまっても無駄さ、君とわたしは長いこと楽しい時間を過ごしてきた、それが二人が付き合うに十分な根拠になることがそんなに分からないか?」

「違うよ、わたしは付き合うことには賛成だ、なんならそう言ってくれてあまりの幸福感に打ちひしがれそうになっているくらいさ」

「じゃあもっと素直に喜べよカスヤロー」

「待ってくれ、君もわたしの性格をよく知っているだろう、あまりに幸せなことほど受け止めるのは怖いものなのさ」

「じゃあ君のさっきの不安に対するわたしの見解を言語化してやろう、出血大サービスだぞ」

「頼むよ」

「楽しい時間には持続性がない、つまり常に“今“しかない、よって、楽しい時間は作り続けなくてはいけないものだ、以上」

「ちょっと待ってくれ、どういうことだ、それで最悪な状況を回避できる筋道が分からない」

「最悪な状況でも、わたしと君なら、楽しめると言いたいんだよ」

「地獄にも花が咲くと言いたいのか?」

「へへっ」

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