こどものいじめとおとな
「いじめを経験したことがあるか。」
そう質問されたらあなたはどう答えるだろうか。
どうやら、大抵の人が考えるに、「いじめられた」というのがその体験をしたということに当てはまるらしい。
私は不思議に思った。
ちなみに私の回答はこうなる。
「いじめられたような気がするし、いじめをしたこともある。私への行為は小学生のままごとのようなものだった。」
「しかし私自身が他でやったことについては、相手を泣かせてしまったので後悔し、やめた」
それから、持論でいくと「いじめを見て見ぬふりをした自覚」もいじめの経験ではないかと思う。
人を抑圧する行為は、周囲にも伝染する。
その状況に触れること自体が辛くて、悲しくて、心に傷を作ってしまう人もいるのだ。
日本ではいじめられっ子、アメリカではいじめっ子にカウンセリングを施そうとすると書籍で読んだ。
私の経験としては、いじめにおとなが介入すると、たいていろくなことにならない気がしている。
いじめというものにおとなが介入して状況が改善したことなんて、私が悪事をやめた時の一回しか見たことがない。
しかしプロによる内面のケアがが叶うなら、確かに効果的なのではと期待が持てる。
もしいじめっ子が自分の心理ケアを求めて行動しているなら、そのケアをするのはいじめられっ子ではない。
プロの知識が必要な、おとなの案件だ。
ちなみに私がいじめを止めたきっかけは「恥ずかしい行為だ」と叱責されたことだ。
もともと、あまり快いものでもなかったので、個人的にはのんびり止め時を探してはいた。
叱責の際、先生はそれまで見た中で一番険しい顔をしていた。
消え入りたくなった。迷うだと。馬鹿か。すぐさま寸分の迷いなく止めるところだ。
自分が情けなかった。
その先生は私たち小学生をただの子どもとしてでなく、ひとりの人間として「やってはならないこと」について叱ってくれた。
ちなみに塾の講師だった。素敵な先生だ。
学校の先生は最悪だった。
こちらは私が、不愉快なちょっかいを出される側だったのだが。
家庭訪問の時に「小春さんはいじめらている」と家族にバラしたこと、許せなかった。
私はずっと、隠していた。
いじめのような目に合ってそれを解決出来ないでいる自分を情けないと思って、親には隠していたかった。
それに学校でのことだ。親に言ったところで解決出来ることではない。
小学校の先生は、私のなけなしのプライドを無視した。
また生徒たちの前で、叱るつもりで「ちょっかいかけるのはその人を好きなのよ、だからこれ以上やったらそうみなすわよ」と発現。
こんな発言で私へのちょっかいが無くなると思ったのだろうか。
もし仮に無くなったとして、自分の業績だと考えるのだろうか。
ちなみになんの効果もなかった。椅子から転がされたり、「うんばばー」とか言われながら周囲ではやし立てられたりした。
いじめにしてはライトだと当時から考えていたので、それに耐えられない私の心が、情けなった。
それでも、トイレの便器に顔を突っ込まれなかっただけよかったなと思う。
なんとなく、伝わるだろうか。
片方の先生は、子どもたちの心理に寄り添った発言をした。
片方は、子どもはただ言えば言葉の通りに従う生き物だとでも勘違いしているようだ。
今回はいじめを経験した私が、それに寄り添うべき意見はどうあるべきかを、書いてみた。
カウンセリングをするにはいろいろと試練がありそうだが、ただ子どもを年齢だけで舐め腐ったおとなには、なりたくないと心から思う。