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夢に向かって生きる人を目指して

こんにちは、高橋向生です。
先日、ロンロ・ボナペティさんが建築をスキになった話を紹介しており、それに影響されて僕もかいてみることにしました。

今日は僕自身も建築にどうハマっていったのか客観的にみていきます。

・現場を見ていた小学1年生
・親が教えてくれた当時のこと
・誰も夢をバカにしない

現場を見ていた小学1年生

僕は最初、建築よりかはダンプカーなどの重機がすきで、その絵本をずっとよんでいました。
幼稚園児のころはそういう工事現場の児童文学をずっとよんでいた記憶がぼんやりとあります。

でも、建築にハマった瞬間はいまでもハッキリ覚えています。

通学路の途中に住宅の工事現場がありました。
別に建築家が設計したような建物ではなく、ごく一般的な郊外住宅の建設現場でした。
最初は、絵本とかでよんだクレーンやショベルカーが沢山くると思って、朝と夕方の登下校に毎日通っていました。

重機目的で現場をみていたのが、段々と住宅ができあがっていく様子にワクワクしていました。

そして、単管足場がくみあがって柱や梁といった軸組も建ち、建築の形ができあがっていきます。
そうやって現場をみていたある日、現場のおっちゃんが

「おう、坊主。中に入ってみるか?」

と、いってくれました。
もう顔も、会社名も覚えていないけど、左官屋さんのブカブカしたズボンと白いヘルメットをしていたのは覚えています。
住宅もある程度できてたけど、内装ができてなかったため、たぶん左官の人だと思います。
その人が手前の足場だけなら登っていいから、好きなだけみていいと言ってくれました。

僕は、荷物をぜんぶ地面において手前の足場と階段だけのぼってみました。
小学1年生の僕には足場の高さはこわかったです。
ですが、それ以上にじぶんが宙に浮いているような視線と感覚、探検するような単管足場のせまさ、そしてなにより現場のおっちゃんがかっこよかったです。

僕は、そんな現場のおっちゃんのかっこよさと、足場の空間と、出来上がっていく住宅の様子を見て、建築をスキになりました。

親が教えてくれた当時のこと

その日、僕はずっと現場をみていました。何時だったかは覚えていません。
現場のおっちゃんが「家に帰らなくて大丈夫か?」と心配したため、僕は家に帰りました。その後のことはあまり記憶になく、当時のことを親に聞くと、僕が帰宅したのは夜の20時を過ぎていたらしいです。

小学生が夜になっても帰ってこないから誘拐されたと思ったようで、危うく警察を呼びそうになったそうです。
帰宅した僕に、今まで何をしていたの!と叱ったら、
「家をみてたー」といったようでした。
自分でいうのもあれだが、かなり呑気だと思います。

今思えば、親にさんざん迷惑かけた挙句、警察沙汰になれば現場の方々にも迷惑が掛かって、散々な状況になっていたと申し訳ありません。

誰も夢をバカにしない

それ以降、僕は重機よりも、建築や大工さんに興味をもちました。社寺専門の宮大工の存在も知って、かれらが建てた神社などをみるようになりました。

大工さんになると親に夢を伝えて、両親は頑張れと応援してくれました。
転校をくり返していた当時、自己紹介はきまって大工さんになるのが夢だといいつづけました。
小学校高学年になったときに現場監督や建築家をしり、どれになるかで迷っていました。
建築を建てる仕事につくと必ずきめて、中学校でも大工さんやら現場監督やら建築家になるといい続けました。

そのため、高校も建築学科の工業高校にはいり、3年間を建築にささげました。
学生コンペに出したり、建築大工技能士をとったり、ものづくりコンテストにでたり、高校内ではだれよりも建築をやっていたと自負しています。

そのまま、大学も工業大学の建築学科にはいりました。そこでも、建築のことばかり勉強して、建築の本をよんでいます。設計課題をやりながらコンペを出したり、結果が伴わなくて泣いたり、散々な日々だけど、充実な毎日を過ごしていました。

最近気づいたことだが、こうやって建築をずっと追い求めているのは、僕が建築が好きだからとおもっていました。
でも、実際は違います。本当は誰一人、僕の夢を笑わず、馬鹿にしなかったのです。

頑張ることを笑わない、努力を恥ずかしいとおもわない。
そう思えたのはみんながバカにしなかったおかげだと思います。
恵まれた環境ですごせた日々、馬鹿にしなかった方々と両親に感謝をこめて終わります。

ありがとうございました!


※それに気付くきっかけとなった話もどうぞ。


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