人間にとって唯一の平等とは

平等とは何だろうか。

この世界に、真の平等というものは存在するのか。
1948年に国連総会で採択された「世界人権宣言」の第1条には、こう記されている。

「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利について平等である」

日本国は当時、国連未加盟国であったため、この宣言には関与していない。

しかし、1951年のサンフランシスコ講和条約の前文において、「世界人権宣言の目的を実現するために努力する」と明記されており、日本もその理念を支持していることがわかる。

法律等の第1条が示すように、目的規定はその法が目指すべき目標を定義する。
世界人権宣言の第1条が掲げる「生まれながらの平等」は、果たして現実に存在するのだろうか。

ある大学教授の講義で話題になる「平等に関する実験」をご存じだろうか。
白い線を引いたスタートラインに学生を並べ、駆けっこの競争をさせるが、スタートには条件がある。
その条件に当てはまる者は2歩前に進み、当てはまらない者はその場に留まる、というものだ。

条件は次のようなものだ。

1. 両親が離婚していない
2. 家計を助ける必要がなかった
3. 食べ物に困ったことがない
4. 私立学校に通うことができた
5. 母国語が英語である

約10個の条件があり、どれもスタート地点に立つ人々の選択によるものではない。
条件に当てはまった人々が前進し、結果として競争に勝利するのは当然である。

しかし、それが「平等な競争」と言えるのだろうか。
決してそうではないが、現実は、より多くの機会が与えられた者が有利であり、その差を埋めることは非常に難しい。

では、「生まれながらにして平等」とは、何を指しているのだろうか。
唯一平等だと考えられているものに「時間」や「死」がある。

しかし、時間は本当に平等に与えられているのだろうか

富や医療の差によって、時間さえも不平等になる。
医療設備が乏しい地域に生まれ、病に倒れた者と、最先端の医療を受けられる環境に生まれた者では、その生存時間に大きな差が生じる。
前者はただ死を待つしかない一方、後者は医療にお金を払うことで時間を「買う」ことができるのだ。

「死」についても平等と言われるが、本当にそうだろうか。
すべての人間が必ず死ぬという事実はあるものの、死の形やタイミングは不平等である。
最近の事件では、若い女性が生まれたばかりの赤子を自らの手で殺し、駅のロッカーに遺棄した。この赤子は、自ら死を選んだわけではない。母親が違えば、その赤子は元気に生きていたかもしれない。

この赤子の死は、まさに「生まれながらにして不平等」を象徴している。
生まれた場所や環境、親の選択は子ども自身の意思ではない。
だからこそ、「人間は生まれながらにして不平等だ」と言える。

現時点で、唯一平等かもしれないことは、

「一瞬でも生命としてこの世に誕生したこと」

だけだと思う。
世界人権宣言が制定されて半世紀以上が経過したが、いまだに医療や食料が行き届かず、多くの子供が餓死している。

いったいいつになったら、

「すべての人間は、生まれながらにして平等である」

と言える世界が訪れるのだろうか。

言葉を発することは簡単だが、それを実現するのは非常に困難である。

あなたが考える平等とは何だろうか?



不平等だからこそ世界はおもしろい。


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