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K2に眠る2人のクライマーと家族を想う
平出和也さんと中島健郎さん。
2人がK2西壁で遭難したというニュースを見たのは、ちょうど生徒を引率しての十勝岳縦走登山から降りてきて、ほっと一息ついているときだった。
生徒を引率してのテント泊、足をくじいた生徒がいて、しかも夜半に雨風が強くなったので、かなり神経をすり減らしたが、無事に登頂を果たし、全員無事に下山できた。
そんな安堵感の直後、このニュースを見たのでショックが大きかった。
一緒に引率していた先生は、健郎さんと家族ぐるみで付き合いがあったようなので、余計にショックを受けていた様子だった。
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「What’s Nest?」
昨年、平出さんが山と渓谷社から出版した本のタイトルである。
K2から戻って「次は、どこ?」を見せてくれるはずじゃなかったの!?と、みんな思っているはずだ。
遭難の一報を見たときから、ぼくはずっと平出さんと健郎さんのご家族を想っている。
いざというときは、もちろん覚悟はしていたと思うが、あまりに残酷だ。
誰かが、植村直己さんの遭難と重なると書いていたが、ぼくはそうは思わない。
植村さんが遭難したのは、1984年2月13日。
自身の43歳の誕生日、厳冬期のデナリに世界初登頂を果たし、その翌日のことだった。
植村さんは、40年たった今もデナリのどこかに眠っていて、その姿は発見されていない。
植村さんには子どもがおらず、そのすべてを受け止めたのは妻の公子さん、そして植村の親・兄弟だった。
平出さん、健郎さんには、奥様、そしてそれぞれに2人のお子さんがいる。
植村さんと違い、2人はヘリコプターから目視できる場所にいる。
だけど、誰もそこに近づけないのだ。
それが本当に辛い。
以前、K2冬季初初登頂について、ここに書いた。
K2は、「非情の山」である。
K2がどれほど厳しい山か、もちろん2人はよく解っていた。
だけど、そこに懸けたい想いもあったのだろう。
改めて、平出さんの著書を読んで思うのだが、2人にとって究極で最高の山登りは、やはりシスパーレだった。
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前人未踏のK2西壁(西北西壁)は、世界最高レベルの難壁だ。
当時、世界最強といわれたクライマー、ヴォイテク・クルティカも4度チャレンジしたが、跳ね返された。
4度のチャレンジでのクルティカの最高到達点は、 6,650m。
※2007年にロシア隊が極地法で登頂したラインは、右手のバットレスに迂回したようなラインであり、クルティカがアルパインスタイルでねらっていたラインとは別である。
今回、平出さんと健郎さんは7,000m地点から滑落したとあるが、もしそれが正確な高度だとすれば、それ自体が前人未踏の大記録だった。
平出さんは、著書で
標高7000メートル、8000メートルの登山において余裕で登頂し戻ってこられたら、それはチャレンジではない。ぎりぎり命を落とさずに登頂し下山してきてこそ成功なのだ。それ以外は失敗となる。失敗には、途中での敗退、もしくは死がある。生と死の紙一重のあいだを行ったり来たりするような登山だけが、私の血を騒がせるのだと思っている。
と書いていた。
また、本文中で
植村直己は「冒険とは、生きて帰ることである」と言った。長谷川恒男は「生き抜くことは冒険だよ」と言った。そして谷口けいは「人生は冒険旅行だ」と。
と3人の言葉を引用している。
冒険とは、「生きて帰ってくる」、「生き抜くこと」。
生と死が紙一重の登山であっても、先人たちが守れなかった約束を、2人にはちゃんと果たしてほしかった。
本書の中で、平出さんが遠征先から妻に今日の献立を聞くエピソードがある。
「さわらの粕漬け、白和え、酢の物、しじみの味噌汁」
健郎さんのインスタでも、今回の遠征前に家族と食卓を囲む投稿がある。
「しばし納豆ご飯にお別れです」
家族のもとに戻って、また食卓を一緒に囲む未来を想像していたはずだ。
平出さんはぼくと同世代。
2人のお子さんの年も、うちのむすめたちとほぼ同世代。
大切な父親が帰ってこない家族を想像すると、同じ父親としてとても申し訳なく、そして苦しくなる。
ぼくも2人には遠く及ばないが、2011年と2013年にヒマラヤに行ったことがある。
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2013年のアマ・ダブラムでは滑落して、散々な目にあった。
けれど、そこから10年以上経つが、またあの場所に戻りたいと思っている。
あのヒリヒリとするような感覚は、日本では絶対に味わえない。
そして、あの荘厳な景色も。
自分が自分であるという実感。
究極的に生きていると確かめられる場所。
それがヒマラヤ。
子どもたちの可愛い寝顔を愛でている自分と、ヒマラヤという極限世界で目一杯生を享受している自分。
どちらも望む自分の姿だけど、その世界は相反している。
2人も決して、家族をなおざりにしてはいなかったと思う。
ただ、同じ父親として思うのは、子どもたちの成長が見れないという現実はあまりに酷だ。
子どもたちが、小学生、中学生、高校生、そして大人になっていく未来。
その未来は、ある意味で山登りより険しく、そして尊い。
2人はプロの山岳カメラマンでもあった。
彼らが命を燃やして対峙した、生きた記録をK2から取り戻すことはできないか。
最後に記録された映像だけでも、どうか家族のもとに戻ってほしい。
ただ、今はそれを願っている。