新たな一歩
登頂ができなかった富士登山の後、モヤモヤした気持で夏の日々を過ごしていた。
汗ばむ部屋で、一人考える。
祖母の供養はできたような気がしたが、それ以上にやり残してきた何かが、私を曇らせた。
自問自答を繰り返し、出てきた答えは「山」だった。
この靄を晴らすには、もう一度山に登るしかない、と。
では、今の自分に最も相応しい山はどこだろう。
すぐに答えは見つかった。
子どもの頃に、何度か家族で登った北海道最高峰。
そう、大雪山系の旭岳(標高2,291m)である。
実に小学生の時以来の旭岳。
どんな山だったかと、記憶の糸を手繰り寄せる。
すると、出てきた旭岳の印象は、山登りではなく、冬に父と山スキーをしに来た思い出と、1989年に起きた「SOS遭難事件」であった。
別の遭難者を救助した際に発見されたシラカンバの倒木で作られたSOSの文字と、残されたテープレコーダー、そして身元不明の白骨死体。
子どもの脳裏に焼き付けられるには十分すぎるほどのミステリアスでショッキングな事件だった。
たまたま、その前年、付近をスキーで滑っていたこともあって、余計記憶に残っていた。
とにもかくにも、富士山に登れなかった私は、「じゃあ北海道の最高峰を登る」という単純な思考回路で、登る山を旭岳に決定。
思い立ったらすぐに行動、がポリシーなので、一緒にいってくれそうな友人に声をかける。
しかし、なかなか見つからず、登山に少し興味を持っていた友人を無理やり説得して、残暑残る8月下旬に登った。
山行自体は、若干物足りなかったが、北海道で一番高いところに立っている優越感がたまらなかった。
あいにく頂上はガスがかかって視界は晴れなかったが、それまで私の心を覆っていた靄は消えていた。
そして、旭岳で確信した。
探し求めていたものは、やはりこれだったのだと。
それから旭岳には、何かの節目で登るようになった。
雪山デビューの際も、旭岳に決めた。
ピッケルとアイゼンを使った初めての登山。
アイゼンはグリベル社製のエアーテック・ニューマチック。
セールになっていたミレー社製の残雪期対応のトレッキングシューズと一緒に秀岳荘にて購入した。
恥ずかしい話だが、装着方法が全くわからず購入時に装着方法を教わり、ついでに調整までしてもらった。
家に帰ってから教わった装着方法を何度も繰り返し練習した。
黄色いラインに黒い刃が光るそのボディに惚れ惚れし、ご飯を食べながら眺めていた記憶がある。
ピッケルは、職場の当時の校長先生から貰った。
校長先生は高校の山岳部の顧問を歴任し、ヒマラヤ登山の経験もある根っからの山男である。
私が高校に採用されたときの面接を担当したのも先生で、面接時も山の話で大いに盛り上がった。
山好きで拾われたのか、その面接を経て、私は今でもここで働いている。
そんな先生がある日、唐突に私を校長室に呼び出した。
「何かやらかしたかな!?」
内心ドキドキしながら校長室に行くと、待っていた先生から予想外のこんな一言。
「ピッケルいるかい?」
もちろん私は「はい!」のふたつ返事。
怒られるものだと思っていたので、余計に嬉しかった。
翌日、先生は約束通りグリベル社製の使い込まれたピッケルをくれた。
以前何かの本で、ピッケルは山男の命だと、読んだことがあったので、私は先生の登山魂を受け継いだ気がした(もちろん本人は、全くそんな気持ちではない)。
そして、手に取った瞬間に雪山への運命を感じた。
そこから雪山登山を強く意識するようになり、図書館に通い詰め、雪山に関する知識を詰め込んだ。
誰に教わることもなく、独学で頭にたたき込んだ、そのイメージを繰り返ししながら、早冬のある日、旭岳ロープウェイの姿見駅に降り立った。
ギュ、ギュ。
真新しいクランポンが雪を噛み、山男から受け継がれたピッケルが白い大地に突き刺さる。
あの時の興奮と緊張は、今でも忘れない。
澄み切った冷えた空気を肺にめいいっぱい吸い込みながら、一歩、一歩、進んだ。
晴れ渡る山頂からの眺めは壮大で、ここが日本ではなく、どこか遠い国のような錯覚を覚えた。
この雪山デビューにより、私はまた山登りの面白さを知った。
当時付き合っていた彼女(現在の妻)へのプロポーズを考えた時も、絶対に旭岳しかないと思った。
山登りが嫌いな彼女でも、登ってくれるであろう山。
しかも、そんじょそこらの山ではなく、北海道で一番高い場所。
プロポーズの半年前に『旭岳プロポーズ大作戦』と銘打って、プロジェクトはスタートした。
「ロープウェイを使って、手軽に登れるよ」
「姿見駅からの景色は、まるでジブリの世界だよ」
「北海道で一番高いよ」
などと、ありとあらゆる言葉で日常的に洗脳し、何かと可愛い山の服を買い与える。
丁度山ガールブームもあり、少しずつ興味を持ち始めた彼女。
その間も作戦は着実に遂行されており、プロポーズ一ヶ月半前に、遂に婚約指輪も完成。
作戦決行の当日、天気はあいにくの曇り予報であったが、ここまで来ればもう登るしかないと彼女も腹を決めたようで、素直に山ガールに変身。
最後ふらつきながらも山頂に達した彼女に、半年をかけたプロポーズ作戦決行。
サプライズで指輪を渡された彼女は、
感激の涙・・・
のはずだったが、丁度タイミング良く別の登山者の
「あー着いたー!」の声。
結婚してください・・・
えっ・・・笑
まさかのオチがついてしまったが、最後の最後で旭岳から嬉しいサプライズ。
それまでずっと山頂にかかっていた厚い雲のカーテンが一気に開けたのである。
それはまるで、旭岳が2人の新たな門出を祝福してくれているようであった。
山の神様に感謝しつつ、北海道一の頂からの贈り物、無限に広がる大雪の白と緑と茶色の絶景をずっと二人で眺めていた。
雪山デビュー戦。プロポーズ大作戦。
どちらも私の人生にとって大きな節目となる山登り。
ちっぽけでひ弱な自分をいつも受け止めてくれる旭岳。
大雪山連峰を包み込むようにして立つその優美な姿と熱を帯びた山肌は、どこか母のように温かく。
新たな一歩を踏み出そうとしている、私の心をいつも励ましてくれる大切な山である。