「同じ」すぎることに気づけるようにnoteを書く

なるべく平穏に、波風立てずに、安定こそが自分の求めているものだと思っていた。だけど、今日の「今日のダーリン」を読んで、「このままじゃ、やばいな。」と、思った。

【切り取るのはよくないけれど、一部抜粋させていただきます】

毎日、できるだけたのしくは過ごしたいけれど、「同じ」すぎることに気づけなくなるのは、危うい。

だいたい、究極の安定というのは
「永遠の止=死」だから。
「差別化=差異」で食っていこうと思うなら、
差異の無さに敏感になるところから始めよ、だと思った。

ほぼ日刊イトイ新聞 今日のダーリン 2024.9.20

究極の安定を目指してしまうと、「永遠の止=死」になってしまう。それはちょっとまだ早い。安定を目指しすぎると、止まってしまうということか。今更か。

究極の安定じゃなくて、ほどほどの安定だったら、「永遠の止=死」ではないから、まぁいいんじゃないかな。と、思いたい私がいる。

「同じ」すぎることに気づけなくなる危うさを、忘れずにいられるだろうか。いつもとちょっと違うことを、やってみること。その日に感じたこと、心が動いたことを、表現してみること。そうやって毎日、違うことをnoteを書いていれば「同じ」すぎるということから、少し遠ざかることができるのかも。まぁ、だいたい同じようなことを書いているかもしれないけれども。noteを書くという大枠は「同じ」なのだけれども。その中でも、何かしらの小さな「同じじゃないこと」の積み重ねこそが、生きてるってことなんだろう。



別の方向からも、見てみる。

「永遠の止=死」
 究極の安定

なるほど。
そちら側から見ると、
死に対する恐怖心が、やわらぐような気もしなくもない。

いつの日か、
死を間際にしたときには、
究極の安定という見方もあるんだな、ということを、おぼえておこう。

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