可能態の似非文学、さなぎ派
目が覚めて二時間半 未だ毛布から抜け出せず秋曇り
昨日読んだ自由律俳句の世界から抜け出せない。
そもそも、僕はだらだらと長い文章を書き連ねるタイプだ。
無駄な形容で文章を飾り立て、なにやら意味ありげな風を装う。
そんなやり方とは対照的に、短文、短文、そして余韻。
ギリギリの情景描写で、あとは読み手の想像力に委ねる。それが自由律俳句。
種田山頭火の世界に久しぶりにどっぷりと浸かり、眠りについたのが昨晩だった。
入れたら出したくなるのが、人情だ。なにせ、今日は一日とくに予定もない。
ぼんやりと、そのときどきの雑念を短文におさめてみようと、
さなぎのようにくるまった毛布の中で思い至った。
以下、今日の僕の創作雑念群。
文学を気取って「さなぎ派」と名付けることにする。
_______
AM10:00
将来の夢は工作員といふ子ども
新聞の集金には動じず 遠ざかるバイクの音
AM11:00
深酒が昼近くまでからだを巡る
良さげな喩えだが、分からず慄く
飛行機の音がする 僕は乗っていないのに
PM12:30
おたまで炒めれば中華だという
地方収録のラジオ 観衆の歓声が温かすぎる
PM2:00
警官に見られている 肉まんを食べ歩きしているからだろう
PM3:00
すごい人手だ ジャスコみたいだ
後姿をさりげなく目で追うという欲情のしかた
PM4:00
僕のテーブルだけがグラグラしている
近くの女子高生の山本裕典というワードに反応する僕の過剰な自意識
聞こえないふり気付かないふりの喫茶店
PM5:00
また「新発売」の食べたことあるやつだ
口紅がはがれぬように ナプキンを上から押さえつける方式
抱っこされている子どもにいつまでも見られていてはたまらない
へんなロープをつけられて 犬みたいに管理される幼児
PM7:00
感嘆詞と終助詞だけで会話を終わらせようとする
神妙な顔で伸びるチーズとたたかっている
________
ここにきて、すべてを並べてやっと思い至った。
なるほど、どれもこれも何を言っているのか皆目検討がつかない。
とくに言いたいこともないのだから当然なのだけど。
これらを逐一友人に送りつけていたら、彼から「可能態」という概念について聞かされる。哲学の門外漢である僕には馴染みがない言葉。その理解は間違っているかもしれないが、外向きのギラギラしたエネルギーではなく、雌伏の者たちの内向きのいじらしさ、みたいなものではなかろうか。
そう思うと、なるほどいいラベルを貼ってくれた。
さなぎ派の呟き、可能態の文学かぶれ。
楽しかったので、趣味にすることにした。