カナリヤに救われてしまう話
3年間に終止符を打った地獄みたいな誕生日から、もう5ヶ月も経ったんだな。「忘れていたくない」と思っていたあれこれは少しずつ薄れていって、「忘れたくなかったな」という思いだけがぼんやりと残った。完全に立ち直るなんて無理な話だし、そもそも元々がそんなにハッピーな人間ではないし。それにしてもあれほど毎晩たれ流していた涙や後悔や苦しみは、一体どこにいってしまったんだろうな。
変わってしまったから愛されないんだ、と思っていた。事実それはそうだろうし、わたし自身 変わってしまったあの人を愛せなかった。以前のふたりではなくなったわたしたちでは、もうどうしようもなかったのだ。以前のわたしってどんなだっけ、と必死で脳内検索して絞り出した、どこにでも行けた無邪気なわたしの皮をかぶってみる。所詮はのっけたに過ぎないから いとも簡単に剥がれてしまうし、卑屈で醜いわたしが顔を出してしまう。慌ててふさいで、涙やら痛みやらを隠して…ということを繰り返していた。
だから新しく出たアルバムで米津玄師が、「いいよ」と言ってくれたのには驚いた。否定による肯定とか回りくどいことをやめて、まっすぐに全肯定してくれる歌詞。「いいよ あなただから いいよ」。最初は「あなたじゃなくても いいよ」だったらしい。あなたがあなたじゃなくなってもいい。でも今は、あなただから、いい。最後に何も残らなくても、いい。現在も未来もすべて肯定して、目の前の「あなた」の変化ですら肯定してしまう。究極の肯定の形だ、と思った。
変わっていくことを恐れてしまう。このままでいたいと思ってしまう。でも、変化からは逃れられない。月日とともに環境も考え方も外見も趣味嗜好も変わっていってしまう。そんなわたしでも、きっと、いい。ふたりとしての形は終わってしまったけれど、あのときのふたりは、わたしとあの人だったから、きっと、よかった。わたしじゃなくなって、あの人じゃなくなって、それでも、あのときのふたりは「あなただから」よかったんだ。
過去のふたりを肯定すること、今の変化した自分を肯定すること。文字にしたら一文で事足りることが、世界でいちばん難しかった。変わっていくことを受け入れられず、過去も今も恨んでしまうわたしを丸ごと「いいよ」で包んでくれた。一生米津玄師に救われ続けるのは、もうそういう運命なんだろうな。