【家族の生活史】母が理想としていた、「男性と結婚して、幸せに暮らす」という価値観から逸脱すること。それが、私にとっての「母殺し」だと思うんですね。
本記事は、あくまで個人の体験談です。語り手の言葉には、個人の経験や感情に基づく表現が含まれており、必ずしも一般的な見解や事実を反映しているわけではありません。また、プライバシーの観点から、内容を一部変更している場合もあります。
本記事をお読みいただく際には、個々の状況や背景の違いを尊重する視点をもって受け止めていただければ幸いです。
また、制度などの正確な情報については、専門家の意見や公的機関の資料などをご参照いただくことをおすすめいたします。
私はこれまで、戸籍上の男性とも、戸籍上の女性とも、パートナー関係だったことがあって。パートナーの性別によって、けっこう自分の心持ちもちがうなって感じています。
同性カップルの議論って、「お互い好きならそれでいいじゃん」みたいなこともいわれるんだけど、「いいじゃん」で済まされない現状がある。「私が記憶喪失になったらどうするんだろう」とか、「緊急の時に私のパートナーはどうしたらいいんだろう」とか、「一緒に暮らすってなったら、今後の財産はどうなるんだろう」とか。
まだ周囲に関係性を言いづらかったり、法的に関係が認められない中で、そういう、「好きなだけでいいよね」じゃ済まされないものが、ずっと付きまとってくるなと思ってて。
--うん、うん。
男性パートナーがいるとき、私、あたりまえに結婚するものだと思ってた。だけど、戸籍上女性の人と付き合ってるときは、その選択肢が急に剥奪される感覚があって。「やっぱ権利がないんだな」って自覚させられるんですよね。
それを繰り返してるうちに、「そもそも結婚ってなんなんだろう?」とか、「結婚してないパートナー関係は法律で守られてなさすぎないか?」みたいな疑問が、自分が当事者になったからこそわいてきた。
私のレズビアンの友達は、「結婚ってそもそも選択肢にないから、別にそこに悩むこともない」みたいに言ってるんですけど、私からすると、戸籍上女性の方と付き合っているときに、結婚という選択肢がとれないのは、「あったものがなくなった」みたいな気がする。
-- そうか。これまでの人生の中で、結婚やパートナーシップに関する考えが変わった出来事があれば、具体的に聞きたいです。
めちゃめちゃいっぱいあるんだよな(笑)やっぱり友達とできる話がどんどん減ってくのは、シンプルに悲しい。パートナーが男性の時は、「彼氏できてさ」「いつ結婚すんの?」みたいな会話ができる。
でも、私が女性と付き合ってるって話すと、場が緊張感に包まれるんですよ。しかも多分、私がセクシュアリティについて勉強してるのもわかってるから、みんなできるだけ傷つけたくないのか、踏み込んでこない。単に楽しく恋バナがしたいだけなのに、ちょっと悲しいなって思うんですよね。
あとは、男性パートナーがいる時は、「社会のステップ」みたいな話を普通にされるけど、女性パートナーがいる時は、そういう話をされない。そういうときに、なんかちょっと悲しい、みたいな気持ちを、私は日々日常の会話レベルで感じてますね。
-- 「社会のステップ」っていうのは?
「結婚して、子どもをもって…」みたいなこと。戸籍上女性の方と付き合ってる時は、「あーあ、そのステップ、私多分一生来ないわ」って痛感させられる。
-- そうか。
あと、お付き合いしてる人に、結婚願望がそもそもないことが、私にとってけっこう衝撃だった。
戸籍上男性の方と付き合ってる時って、「いつまでに結婚したい」とか「30歳になったら子供欲しい」とか、「もう2年経ったら親に会いに行こう」とかいうステップみたいなものがあったんですけど、パートナーが戸籍上女性で、かつ、その人が同性しか好きにならない人だった時に、そのステップを持ち合わせてなかったんです。「結婚する意味って何?」「なんでそんなに結婚したいの?」みたいなことを聞かれて、私は「わかんない」みたいな。
戸籍上同性の方と付き合ったのは、結婚の意味とか、なぜ結婚したいのかを問われるタイミングになった出来事だと思います。
-- それまでは問われたことないことを問われた。
うん。「当たり前だと思ってたことが、当たり前じゃないわ」みたいな。その権利を得るためには声上げなきゃ、みたいな。
それからパートナーと2人で、超パートナーシップの研究をして。「私たちが今手にできるものってなんだろう?」って。で、「結婚制度すげえ!」みたいな結論に、私はたどり着きました(笑)
-- 「結婚制度すげえ」っていうのは?
パートナーシップ宣誓制度って、あくまで宣誓してるだけなので。私たちがもし宣誓しても、ペロンペロンの紙をもらうだけだなって私には思えて、なんて心許ない制度なんだと。
一方で法的な結婚って、紙にちょっと書くだけで家族って認められて、税金が安くなったり、まわりが「おめでとう!」っていってくれて、かつ制度的にも守られていく。「結婚制度すげえ!」って、その時知りました。
-- 一緒に結婚制度について調べてたっていうのは、具体的にどういうことをしたんですか?
論文を書きました。一緒に。当時、おたがい学生で、ふたりともセクシュアリティの研究をしてたので。私のパートナーがパートナーシップ宣誓制度の研究をして、その制度を利用してる人とか、利用しないと決めてる人とか、全国の30,40人ぐらいのいわゆる同性カップルにインタビューをしていて。論文をまとめる過程で、私も一緒に制度を調べたりして、詳しくなりました。
-- そういうことですね。そうした経験を経て、結婚やパートナーシップについての考えは変わっていきましたか?
今も、結婚はしたい気がするんですよね。インスタとかに、私も「入籍しました!」って載せたいな、とか。あと、「幸せです」って言ってみたいなぁ、って思います。
だからけっこう、社会的承認への欲求がすごい強い気がします。なぜ結婚したいのかといったら、認められたいんだと思います。
--それはパートナーシップ宣誓制度だと得られない?
うーん。ワンチャン宣誓でもいい気もしますけど。これも超感覚ですけど、なんか結婚って、みんなすっごい節目にしてきません? 「凄まじいこと」みたいな。でもきっと、「宣誓しました」って私が言っても、そうなんないような気が…。
あと、私は宣誓してもわざわざ家族には言わない気がするので。でも、「結婚します」ってなったら、きっと家族にも言うだろうな、とか思うと、「結婚は自分の中のゴール」みたいな感覚が抜けてないんだと思います。それはあんまり、以前と変わってないかも。
きっと、「パートナーとの関係が2者間でしかないこと」が怖いんだと思います。そういう意味では、別に結婚って形ではなくても、胸を張って「私のパートナーです」、かつ「私たちは幸せです」って言えたら、けっこう私としてはウキウキしちゃうと思います。
-- ある意味、その関係がオフィシャルなものになるというか。
そうですね。この間、けっこう仲良しの友達と、「なんで日本が同性婚が認められないのか」みたいな議論をしてた時に、「同性婚を認めたら、友達同士でも入籍する人たち出てくるじゃん。だから問題だと思う」みたいなこと言われて。
「それって、女同士とかだと真剣じゃないっていう感じがするってこと?」って聞いたら、「そうそう、結局友達同士みたいなもんじゃん」と。私とパートナーとの関係を知ってる人から言われたから、「私たちって友達同士にしか見えてなかったんだ!」と思って。
「いや、2人はなんか特別だけど」って、慌てて訂正してくれたけど。でも、きっと認識の中では、「異性カップルとは違うもの」とか、「劣るもの」っていう考えが、この友達にすらあるんだ、みたいなことが、けっこうショックで。
それってその友達がおかしいとかじゃなくて、多分社会レベルで、「異性のカップルが正しいかたちで、その他はちょっと劣る」とか、「満たされない」とか、「正しくない」みたいなイメージがきっとあるんだろうなって日々感じていて。そこを変えていくってなると、やっぱり制度とか、みんなの身の回りにあるものが変わっていく必要があるなと思ってます。
-- そうか。すこし前にSさんと話して印象に残っててるのは、性愛を抜きにしたその関係もありなんじゃないのか、みたいな。
めちゃめちゃありですよね。私、漫画の「NANA」が好きで。作中のジェンダー表現はめっちゃ気になるんですけど、「NANA」で描かれる2人のナナのあり方はいいなと思うんです。
ナナたちは一生男たちに振り回されて苦しい、みたいな感じなんですけど。でも、ナナたちはパートナー関係を結べている、結べるはずであったと思うんです。私、そう思ってずっと見てて。
やっぱりその漫画をクィアな視点から研究してる人たちがいて。それも、いわゆる同性愛として見てるんじゃなくて、アセクシャルの視点。性愛関係はないんだけど強い絆で結ばれてたり、生活を共にするパートナーである、という視点。それはお互いをすごく大切に思える関係であるっていうことを、あの2人は知らなかったんですよ。「性愛がないとパートナー関係は成り立たない」って思ってたのかなと。性愛関係がなくても人と親密でいられるっていうことがもっとわかってれば、ナナたちは暮らしやすかったのにって思って。
なんか、セックスを介在しない人間関係の築き方、2者間の親密になり方みたいなことは、もっとみんな考えていけたらいいと思います。
-- それはSさんの中で、「友達」とはちょっと違う?
うん、友達とは違う気がします。ナナたちの関係も友達とは違う気がする。でも、友達でもあると思います。私の場合とかは、パートナーは友達でもある。
-- 友達でもあるけど、友達って言葉で全部説明できるものでもない。
そうなんですよね。私にとってパートナーの定義は、「日常を共有する人」。そして、「2倍人生を楽しくしてくれる人である」っていう。そうじゃなければパートナーだと思ってないので。
友達も人生楽しくしてくれるけど、毎日「こんなことに気づいて、こんな出来事があって」みたいなことまで共有できるのって、私は1対1の関係が限界だと思う。
そういう関係になった時には、パートナーとして、その人の人生を私も追体験させてもらう。それが私にとってプラスになって相手にとってもプラスになるのであれば、一緒にいる。これが、私の理想のパートナー関係なので。そういう意味では、性愛はそこにはさほど必要ではないって思います。
あと、私の場合は、「異性と付き合ってる時と同性と付き合ってる時で、中身はあんまり変わらないよ?」って思ってます。
私が女性と2人で暮らして、そこに性愛もなくて、ってなったときに、なんか「新しい新種の生き物」みたいにみられるのは、けっこう違うと思ってて。私は多分、異性と一緒にいてもそうなってたし、同性といってもそうなってたし。そこは多分、みんなが想像する「普通のカップル」となんら変わらないのにな、って、私はいつも思っています。
-- なるほど。
ただ、どっちのアプローチをしたら社会にインパクトがあるのか、いつも考えてます。
例えばLGBTQが権利に対して声をあげる時に、「私たちもあなたたちと同じ人間です」っていうやり方と、「いや、私たちはクィアです」って言って立ち上がるみたいな、どっちのパターンもあると思っていて。私はどうしたもんかな、と思います(笑)
-- Sさんにとって、パートナーシップなり家族なりは、社会的な実践でもあるって感覚がある?
そうです。戦いです(笑)
-- 戦いなの!?(笑)
ははは! いや、これ本当に良くないとも思ってるんですけど。私、何にも考えないなら、絶対男性といたほうが楽だと思ってるんです。100パーセント楽だと思う。この社会を生きるうえで。
でも、なんか、戦いたいんですよね。「女性同士でも幸せになれる」ってことを、疑ってるのかもしれないです。私自身も。だから、「身をもって切り開いて、先駆者になってやる!」「誰かに届けてやる!」みたいな気持ちがあるんだと思います。
それは、おっきい社会に対してもそうだし、私はけっこう、母親と戦ってると思ってて。
-- 「母親と戦う」っていうのは?
象徴としての「母殺し」について書かれた、三宅香帆さんの『娘が母を殺すには?』っていう本があるんですね。その本で書かれてるのは、男性は父親から植え付けられた考え方、例えば「いっぱい稼げ」とか「出世しろ」とか、そういう考えがもし植え付けられたとしても、父親の年収を超えた、父親よりも立場が高くなった時に、「父親に勝てた」みたいな感覚を得やすい。
一方で女性は、家庭をうまく築く人もいれば、キャリアを築く人、美貌を築く人とかもいて、その評価基準がけっこうまちまち。そうなった時に、母親に勝てない。「母親に学歴では勝てたけど、私は家庭がないから、母親より劣っている」とか、そういう感覚を女性の方がもちやすいっていうふうに書かれてる本なんですけど。
すごくそうだな、って思った時に、「母親にどう勝っていくか」、「母親の価値観からどう逃れるか」みたいな方法は、私にとっては、母が理想としていた「男性と結婚して、幸せに暮らす」という価値観から逸脱すること。それが、私にとっての「母殺し」だと思うんですね。
-- ああ。
私、「絶対に男性と結婚して幸せにならなきゃいけない」って、ずっと思ってたんです。それが人生のステータスだと。それは多分、母が植え付けたものがすごく大きかった。そこからちゃんと抜け出したい気持ちがあるんですよ。
その価値観がなければ、私の学生生活って、きっともっと楽しかった。学生時代、別に好きでもない男性の中から、1番ステータスが良さそうな人を選んで付き合っていく、みたいな生活をしてたんです。そういうのって、不毛。私にとっても相手にとっても、誰にも得じゃなかった。
その元凶が、母に植え付けられた価値観な気がしていて。そこをちゃんと打破する方法が、今は「女性と幸せに暮らす」ってことなような気がしているんだと思います。
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