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インタビュワーはゆらぐ。

インタビュー記事の作り手も、映像ドキュメンタリーの作り手が模索してきた方法論について学べることがたくさんある。

ドキュメンタリーとフィクションの境界は曖昧だと言われる。同じように、ドキュメンタリーよりだと思われがちなインタビュー記事(そんなことない?)も、実はフィクションの要素がかなりあるのだ。

いくら作り手の主観を記事から消して、客観的っぽく書こうとしても、取材対象の選定、どんな質問を投げかけるか、文字起こしからどの言葉を選んで記事にまとめるか…など、あらゆるプロセスで作り手の主観は入り込むわけで。

なのに、作り手が対象に対して神の視点に立って、客観的にことがらを記述しようとするのは、むしろちょっと傲慢なことな気もする。というか、お仕着せの質問にインタビュイーが答えていく(っぽくまとめている)、Q&Aのようなインタビュー記事は、読んでいてあまりおもしろくない。


じっさいに、インタビューは生身の人と人が同じ時間と空間を共有する以上、どうしたって「ゆらぎ」がおこる。新しい発見があったり、感情がざわついたり、意見のすれ違いがあったり、強い感動があったり。

そんな「ゆらぎ」を記事化するときに捨てるのでなくて、きちんとすくい取ってかたちにのこす方が、おもしろい記事に仕上がる。そうと思って、最近は「ゆらぎ」を記事に落とし込むことを意識してる。


その意味で、インタビューは「プチ参与観察」だ。

「参与観察」とは、文化人類学の社会調査の方法で、調査者自身が調査対象である社会や集団に加わり、生活をともにしながら観察し、資料を収集する方法。そこで得られる情報には、調査者と調査対象が同じ生活をともにすることによる「ゆらぎ」が含まれる。

インタビューはほんの数時間の取材だけど、インタビュワーがインタビュイーと時間と空間をともにすることで「ゆらぎ」が起こることは「参与観察」と一緒。なので、「プチ参与観察」なのである。

たとえばこの記事には、「……正直、私も障がいのある方とどう接して良いか分からなかった経験があります」というインタビュワー(僕)の発話でを入れた。これも、僕自身が取材対象の話を受けて「そういえば自分は…」と内省し、後ろめたさとともに発せられた言葉で、そこから話が展開していく。

こうした「ゆらぎ」の振れ幅が、インタビュー記事のおもしろさにつながるんじゃないか。「ゆらぎ」のあるインタビュー記事からは、人間の息遣いが聞こえる。そんなインタビュー記事を読みたいし、作っていきたいなと思う。

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山中 散歩/生き方編集者
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