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サンマリノGPタンブレロコーナー あの日から30年
あの日から30年。もう、そんなに経つのか。タイトルをみてピンときたひとは、きっとF1好き(だった)に違いない。
F1(フォーミュラ・ワン)、殊の外、アイルトン・セナの猛烈なファンであった高校生の私は、未だにセナのレースやドキュメントを観て、音速の貴公子に熱狂する。
以下、当時の回想である。
1994年5月1日、同年のF1グランプリ第3戦は、高速サーキットとして有名なイモラ・サーキット(イタリア、サンマリノ市)で開催された。
同年は、アイルトン・セナが前年までのマクラーレンからウィリアムズに移籍した年であり、新天地での活躍が期待されていた。
第1戦、2戦(パシフィックGP、岡山のTI英田サーキットで初開催)とポールポジションではあったものの、レースでは結果を残せず、第3戦のサンマリノGPでの奮起を期待していた。
しかし、予選からセナと母国が同じルーベンス・バリチェロの激しいクラッシュ、そしてラッツェンバーガーがコックピットも大きく破損する事故で命を落とすという、異様な空気漂う中で、サンマリノGPの決勝レースが開催された。
当時、F1中継はフジテレビが放送しており、生中継あるいは録画放送が常であった。F1ファミリーは世界各国を転戦するので、時差の影響から中継はいつも夜中であった。
レース中継前のスポーツ番組「すぽると!」では、レース放送前にレース結果が放送されることがあったので、くれぐれも結果をみないよう細心の注意を払っていたのはいうまでもない。しかし、その日のすぽるとはいつもと様子が違っていた。
F1コーナーが始まるといつもはチャンネルを変えていたけど、この日は既にテレビの画面越しでも何か大変なことが起こっていることが伺える様子が伝わってきた。
おそらく、それを伝えたキャスターの声色でそう感じたのだと思うが、すぽるとのF1ニュースの中で、セナが事故にあったことを知る。容体は分かっていない。バリチェロ、ラッツェンバーガーの事故があったので、おのずと不安を覚える。
すぽるとが終わり、F1中継の番組が始まっても、レースの録画放送ではなく、最初からしばらくの間、ピットレーンからの中継であったと思う。確か、三宅さん(めざましテレビの)ではなかったか。その横には今宮(純)さん。その表情から、事態は深刻であることが伺えた。
セナが3週目だったか、ホームストレートを過ぎてタンブレロコーナーに差し掛かるものの、途中で直進してしまい、コンクリートウォールに激突する様子、その後の救護の様子が何度となく流れた。
ヘリコプターからの空撮で、事故後のセナがコックピット内でわずかに動いた様子が見え(ヘルメットが間違いなく動いた)、「これなら大丈夫か」と少し安心した記憶がある。しかし、セナがドクターヘリで運ばれた後、セナが処置されていた跡地で随分な血液のようなものが画面越しに見え、決して安心はできなかった。
その後、一旦番組は、サンマリノGPの決勝レースの様子を最初から放送し始めた。どれだけ周回が進んだ後かは覚えていないが、突然レースの放送が中断され、ピットレーンの三宅・今宮・川合(途中から加わったかもしれない)の姿が映し出される。その表情をみるなり、事態の結末を悟った。みんな、泣いていたように思う。
アイルトン・セナは、34歳で生涯を終えた。しかし、30年経っても鮮烈に私の心の中に生き続けるのは、決して戦績だけではなく、その人柄、生き様、すべてがカッコよかったからだと思っている。
あの日以降、まともにF1レースを観戦することがなくなった。
セナのいないF1レースは、空虚だ。セナが走ったレースの記録、映像がある限り、私の中では人生で堪能するF1の醍醐味がすべて網羅されていると思っているし、それで十分なのである。
あの憂いを帯びたセナの笑顔が懐かしい。