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いっそネコならよかったのに 1

4年の長く辛抱強い時間が終わりを告げた。自由と引き換えに学生時代から暮らしてきた街を離れた。引っ越したのは、足を踏み入れたことさえない見知らぬ街。すべてを忘れ去るには程よい選択だ。うれしいのは徒歩エリアにパン屋それも自分のところで焼いている真っ当なベーカリーが3軒もあることだ。川沿いを150mほど渋谷方向へ歩いたもう一方の商店街にも2軒。明日の朝食はベーコンエッグサンドにしてみようか。

そうだ、せっかく引っ越しで環境が変わったんだ。メンタルもリフレッシュいやリメイクというのはどうだ。いいね。大胆にいこう。イタリア人になってみるか、そう無計画で瞬間、瞬間に楽しみ喜びを探して生きる。いいじゃないか、行き当たりばったり?それはイタリア人に失礼だろ。そんな他愛のない冗談が頭の中で巡っている間に夜は深まり、眠りの中へ落ちていった。
朝がきた。

とりあえずやるべきことはふたつだけ。転入届と離婚届、それが済んだら長めの休暇、まるまる夏休みだ。シゴトも人間関係もoff。昨日の続きのようにイメージのイタリアンがそそのかす。で、どうするジョルジョ?

僕じゃなくてオレ。いいね。そうオレは今日から期間限定でジョルジョだ。女好きで、グラッパに目がなくて、時間にルーズなことでは誰にも負けないジョルジョだ。さぁジョルジョこれからどうする。二度寝でもするか。いや違うだろ。イタリア男なら朝はカフェだ。砂糖たっぷりのエスプレッソだ。カフェの常連とおしゃべりだ。アレッシオ調子はどうだ。マヌエルかみさんは帰ってきたのかい。お~お神父様きいてくださいよ、あの郵便配達のニーノのやつと言ったら。そうだご近所の噂話とか、若い娘の品定めとかイタリア男っぽい(あくまでもイメージです)話で盛り上がるんだ。

何にしたって目的があるのは悪いことじゃない。頭の中で回り道をすることなく。とりあえず前へ。何かしていると余計な事は考えないものだ。もちろん区役所に何か期待したわけではない。区役所だってきっとそうだろうありきたりの人間が来てありきたりな用件を終えては消えていく。

彼らにとって僕、いやオレは目の前を通り過ぎていく電車や公園の鳩のようなものなんだ。代わり映えのしないいつもの光景。これが結婚届なら「おめでとうございます」のひとつも言われるのだろう。離婚届けには、なんて声をかければいいんだろうね。職員同士の飲み会ではそんなことも話題に上がるんだろうか。

幸いなことに区役所では想像していたドラマも予想外の出来事もなかった。やるべき事は滞りなく済んだはずだった。が…好事魔多し(こういう場面で使うんだよなこの言葉)。

「一ノ瀬さん、イ チ ノ セ. セ イ ゴ さん」
後半はご丁寧に区切って呼んでくれたよ。思い出したくもない声。

「今は一ノ瀬じゃないんだけどね!」

「存じあげております。とはいえ昔なじみが懐かしさのあまり愛称でお声がけさせていただいた、というご理解でいかがでしょうか」

「ツカサ、オレとお前はそんなに親しい間柄だっけか」

「おかえりなさい先輩」with 満面の笑み。

まったくこの邪気のなさそうな表情に何度騙されたことか。天使の顔で微笑みかける毒蛇。皆藤ツカサは俺たちの2期後輩。某局のアナウンサーに匹敵する人たらしの天才だ。すべてにそつがないことこの上ない。女のほぼ90%以上はおろか、男たちまでも魅了する。それでいながら内面は常に冷静沈着。自分に酔って舞い上がるほど愚かさなど1mmもない。毒蛇と呼ばれるのはそのあたりかな。

「教えてほしいんだが、なぜここに」

「お待ち申し上げておりましたよ。ねっすごいでしょ、まぁネタバラシしちゃうと、“公務員ネットワークを軽んじるんじゃねーぞ”ってことなんですよ」

思い切りかましてくれた。うまいもんだ。人たらしの面目躍如ってところだな。

「で、お忙しい公務員氏がなんだって哀れな失業者んとこに。まさか仕事を世話してくれるとか」

「それお世話してもいいんですけど管轄が違うものでして。公務員ギョーカイもこれでなかなか大変なんですから」

「っていうかお前そもそもいつ公務員になったんだ。前はガス会社の営業だったよな」

「そうそう僕のあまりの仕事の見事さに区の方からお誘いがかかったわけです。人間真面目が何よりですよね」

何を言ってるんだか。

「下手なマンザイはここまでにしておこう。あるんだろなにかと要件が。言ってみろ」

「いきなり結論まで行っちゃいますかね」そう言ってツカサは小さくため息をついた。

「じゃあ言い方を変えよう、頼む続けてくれ」

「では要件のみ単刀直入に。3ヶ月、3ヶ月経ったらこのマチを出てってください。それが限界です」

「どういうこと」

「理由を知りたいですか。僕も説明してあげたい。ところがあのバカが。失礼!先輩のことじゃないですよ。ただ、先輩のこと好ましく思っていない人物が・・・。あぁだめだこれ以上は勘弁してください」

訳がわからなかった。ツカサは歓迎すべき相手でこそないが、悪人というわけでもない。そして理由もなく、相手を誹謗中傷することもなかったはずだ。ということは誰だ?オレがこの街にいることを快く思っていないのは誰だ。

3ヶ月の猶予というのもわからない。いやならすぐに追い出せばいい。猶予期間にしては長すぎる。3ヶ月後になにがある。いや3ヶ月以内に出ていけというならその先、6ヶ月後か1年後、そのあたりに何かがこの近辺であるのだ。

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