てるこの子

私は母を『てるちゃん』と呼ぶ。
姉は母を『お母さん』と呼ぶ。

姉の旦那さんが結婚前に、ビックリして
「妹さんはお義母さんと仲悪いの?」
と、姉にひっそりと聞いていたらしい。
自分では日常だから、全然その違和感に気がつかなかった。

母はどう思っているんだろう。
でも、日常すぎて、もう直すに直せない。

多分、分岐点は私の思春期。

母は当時、独身だった。
公務員をしていた母は女手一つで、姉と私を育ててくれた。
姉は東京の専門学校、私は神奈川の大学まで通わせてもらった。
母は付き合っている男性もいたが、週末に一緒に食べるご飯代以外は一銭も受け取っていなかった。(代わりに平日、お弁当を作って渡していた)
今、自分の面倒を見るだけで精一杯の私とは大違いだ。

ご飯も手作りだったし、なんなら私のオヤツも全て手作りだった。
洗濯も掃除も、私は手伝った記憶がない。
私はまるまる太っていた。

「女手一つで育てたから、家事も疎か、子供にご飯もロクに食べさせてないと思われたくない。意地だよね。」
それが母のポリシーだった。
心臓病を患い、身体の弱い姉の通院も完璧にこなしていた。

だけど、母のパワフルさはそんなモンじゃおさまらなかった。

中学生だった当時の私の1番の憂鬱は、市の図書館に配属されていた母の仕事が休みの月曜日。

「またきた」
「コート張りだした」
「あ。素振りしてる」
みんなが授業に集中せず、グラウンド側の窓をそわそわ見始める6時間目。私は仏頂面で反対の廊下側の窓を頬杖をついて睨む。

キーンコーン♫

終業のチャイムと同時に荷物をカバンに突っ込み、教室を飛び出す。
おし。スタートダッシュ順調☆

「逃げた〜。捕まえて〜」

と、思ったのも束の間、学年1、2を争うくらい鈍臭い私はすぐに友人に両脇を抱えられ、グラウンドに強制連行される。

「てるちゃん、また逃げ出したから捕まえてきたよ」
友人は、ネズミを捕まえた猫のように、得意げに主人に報告する。
恥ずかしいくらいの高さでポニーテールを結った、ホットパンツ姿の主人は素振りをやめて、振り返る。母・てるこだ。

「お。みんな揃ったね!じゃあ、着替え終わったら、今日のメニュー始めるよ!」

「はいっ!よろしくお願いします!!」

。。声を大にして言っておくが、

ウチの母親は、部の顧問ではない!

運動神経が際立って悪く、かつ、ブゥちゃんの娘がテニス部に入ったと聞き、いてもたってもいられず仕事が休みの月曜日に盗み見に来ていたのだ。
それが、段々と。。

学校の外の空き地

校内
(先生に見つかり「見てていい」と言われたのが運の尽き、その後は瞬殺だった)

職員室
(に手作りオヤツを届け始める)

部室の鍵の場所を知ってねだり始める

部室に居座り、友達を丸め込み教祖となる。

どんどん、私の聖域を侵食してきたのだ。もう誰も顧問の言うことなど聞かず、「てるちゃん」「てるちゃん」の大合唱。
なんなら、男子部員も「俺らにも教えてください!」と直訴していた。

私は恥ずかしいし、顧問の先生にも申し訳なかった。
というか、そもそも、昔から母親の図々しさがホントに嫌いだったのだ。

小学生の時なんか、引っ込み思案でブゥちゃんの娘がさぞかしモテないんだろうと思いあぐねた母親は、事もあろうに子供を差し置いて授業参観に飽きて「この子、可愛くないけどよろしくね」と全ての女の子を飛ばして、男の子だけに肩を叩き握手して回った。

授業中に!

姉も似たようなモンだったので、私はホントに家族が嫌で、早く独り立ちしたいと物心ついた頃から切に願っていた。

そんな感じだったので、母親が家にいる時は、家のドアをあければ、約束もしないのに誰かしら同級生と鉢合わせた。
部活が休みの日に郊外のコートを借りて、母親と母親が付き合っていた彼と3人でテニスをしていても、友達はどこからか嗅ぎつけて勝手に輪に加わり、いつの間にか大人数となっていた。(田舎なモンですぐバレる)
それだけ目立てば、PTAの副会長も押し付けられ、いろんな付き合いで午前様も多かった。

当然、私1人だけ「お母さん」という方が不自然で、いつの間にか、家でも呼び名は「てるちゃん」が定着した。
(その頃、4つ上の姉は東京の専門学校に通っていて一緒に暮らしていなかった)

。。という建前と、その裏で、「意地で育てた」と馬鹿正直に自身の子供に言い、思春期の10代の娘の100倍目立ち、彼氏もいて、完璧に全てをこなす母親に対し、俗に言う『控えめで貞操感を守るお母さん』から掛け離れたそのイメージに、どこか敗北感とジェラシーを感じ、母と認めたくなかった。。というのが、実は、定着した1番の理由かもしれない。

その時代に、私はギターを始めた。
「昔、私もやってみたかったけど、そんな時代じゃなかったから、高校生になってアルバイトして弟には、ギターを買ってやったんだよね」と懐かしそうな目をして母親は応援してくれた。
。。とは言え、何度かお伝えしてる通り、音感もリズム感もない私は、残念ながら何もモノにできなかった。

そんな遠い過去のコトを忘れ去って、私が社会人として、普通に働いている頃、母親は58歳で「Victorの音楽講師になりたい」と高らかに宣言をした。家族全員がその歳で何を言っているのかと、衝撃を受けた。
しかし、(仕事もしながら)譜面も読めないのに猛勉強して、電車の乗り方も分からないのに何度か東京にもきて、ついにはホントに資格を取得してしまった。
実家に帰ると、証明書が額縁に入れられ、神々しく祀られているのが目につく。
神棚にはカラオケ大会のトロフィーがずらりと並び、カラオケの先生として生徒さんから受け取った受講料が大切に供えられている。

夢と言う単語すら忘れかけていた私は、ここでもとんでもない敗北感を味わうこととなった。


今、私は、レコーディング配信しようとしている。

血は争えない

とは、こういうことを言うのかもしれない。
でも、「血」だけではないようにも感じている。

2018年3月12時点、先輩は辞め、後輩も急遽、あと2週間ほどで辞めることになった。
そして、経理の私が一番恐れる年度末決算もすぐそこ。

身体はクタクタでも、朝5:30には起きて、仕事前に1時間歌う。(それが声を壊した原因の1つとは分かっているが、1日は24時間しかないから、仕方ない)

2か月近く出なかった声は、ようやく治ってきた。。だけではなく、『歌いたい』と心底願う気持ちが自分を包んで、飛び出して、自分でも抑えがきかないくらい、独特の歌い方が増してきた。時折混ざる、後遺症の砂嵐みたいな雑音が混ざる歌声がもどかしい。

もどかしい。

もどかしい。

歌いたい。

でも、さらに困難は「これでもか」と立て続けに襲いかかってくる。

多分、声が出なくて長期期間レッスンをお休みしたのが原因なのだが、3月と4月のレコーディングの希望予定日を出したのに、人数オーバーということで、事務所側から弾かれてしまった。
確かにマジメに体調管理して、レッスンに出ている子を優先する事務所側の気持ちはよく分かる。私が事務所側の人間でも、そう判断する。

でも、

私の契約は4月まで。

このままでは、レコーディング配信できなくなる。

事務所の人も、先生も大好きだ。
それでも、戦わなければ、ここでもまた、レコーディング配信は黄色信号。

全てがうまくいかない。

でも、赤信号はまだ、1つもない。

私は戦うんだろう。

そして、

レコーディング配信を手に入れる。

『血』なのか『記憶』なのか。

いずれにせよ、
それが神さまだって、私を普通のおとなしい人とナメてもらっちゃ、困るぜ。

私は、負けない。

絶対に。

だって、私は、

てるこの子。

#音楽 #レコーディング #声 #負けない #歌 #ノド #夢 #掴む

あたしはココに、いるよ! 気づいてくれて、ありがと~(*´ω`*)ノシ えーる、届けー。えーる、おくれー(←頂戴の意味)。