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手のひらから零れた恋【1分小説】
好きだった。ずっと、好きだった。
でも、それを言葉にすることはなかった。
彼女はいつも笑っていた。俺のくだらない冗談にも、馬鹿みたいな話にも、小さく肩を震わせながら笑ってくれた。そんな姿を見るだけで十分だった。俺は、何も求めていなかった。
……はずだった。
けれど、時間が経つにつれ、彼女は俺の前から少しずつ遠ざかっていった。忙しくなったのか、それとも俺に飽きたのか。会う回数が減り、連絡も短くなり、最後には俺が送るメッセージに既読がつくだけの日々になった。
何が悪かったのかは、分からない。
いや、本当は分かっていたのかもしれない。俺が何もしなかったからだ。
手を伸ばせば、掴めたかもしれない。気持ちを伝えれば、違う未来があったかもしれない。けれど、俺はただ、そこにあることが当たり前のように思っていた。
手のひらにあったはずの恋は、気づけば指の間をすり抜けていた。
彼女に恋人ができたと聞いたのは、共通の友人からだった。
「……あいつ、彼氏できたんだってさ」
何気ない会話のように聞こえた。でも、俺にとっては胸をえぐられるような言葉だった。
「ああ、そうなんだ」
なるべく平静を装いながら答える。
「意外だよな。お前ら、いい感じだと思ってたのに」
「そんなわけないだろ」
苦笑して、飲みかけのコーヒーを口に運ぶ。冷めた液体が喉を通る感覚と同時に、心の奥がじわりと冷えていくのを感じた。
思い返せば、チャンスはいくらでもあった。
いつだって、俺の隣には彼女がいた。二人で夜遅くまで話したことも、他愛ないLINEを何時間も続けたことも、全部覚えている。けれど、それを「特別」なものにする勇気が、俺にはなかった。
彼女はきっと、待っていてくれたのだ。
でも、俺は何もしなかった。
だから、彼女は去った。それだけのことだった。
最後に彼女と会ったのは、偶然だった。
街を歩いていると、向こうから彼女がやってきた。隣には、彼女の新しい恋人がいた。俺といたときには見たことのないような、幸せそうな笑顔だった。
俺は、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
「……久しぶり」
彼女が気づいて、軽く手を振る。
俺も、ぎこちなく手を上げる。
「元気?」
「ああ、お前も……幸せそうだな」
彼女は、少し驚いたような顔をしたあと、小さく笑った。
「うん。すごく、幸せ」
まっすぐな瞳。俺の知らない彼女。
「そっか」
それ以上、何も言えなかった。
彼女は「じゃあね」と言って、彼氏とともに去っていった。
俺はただ、その背中を見送ることしかできなかった。
恋は、掴まなければ、零れ落ちる。
あのとき、もう少し強く、手を伸ばしていたら。
彼女はまだ、俺の隣にいたのだろうか。
今となっては、もう分からない。
手のひらから零れた恋は、もう二度と戻らないのだから。