自伝的小説 『バンザイ』 最終章 永久的リメンバー娘
11
アラームが鳴る。
目を覚まし、しばらく放置してからそれを止める。時刻は七時半。ウトウトしているとまた携帯が震える。すぐさまそれを止め、またウトウトする。そんなことを繰り返し、七時五十分まで粘り、ようやく重い身体を起こす。
風呂場の洗面所に行き、電動歯ブラシを濡らし、歯磨き粉を付け口に突っ込む。鏡で寝癖と顔をチェックする。そのまましばらく磨き、終わったら口を濯ぎ、今度は電気シェーバーで髭を剃っていく。顎下あたりが剃り辛いので、何度もなぞり綺麗にする。それが終わったら髪の毛を手櫛で軽く整え、ワックスを少量手に取り掌全体に馴染ませ、髪の毛にワシャワシャと付けていく。なんとなくボリュームを出し、整ったところで手を洗い、リュックの上に被せてある作業着に着替える。
時刻は八時十分。靴を履き、猫を撫で、玄関出て、自電車を担ぎ階段を降り、たくさんの男子学生とすれ違いながら、長い坂道を立ち漕ぎで登っていく。横断歩道を渡り、小学校を横目に進んでいくと、商店街に出る。ひたすら直進していくと大通りにぶつかる。少し長めの信号待ちに焦りながら交番を通り抜け、住宅街の路地に入り、奥へと進む。
十五分ほど掛けて目的に辿り着く。入り口の近く自電車を停め、「スタートモールド」と書かれた看板が貼ってある扉を開けた。
朝八時半から夕方六時まで、僕はここで働いている。途中一時間の休憩があり、僕はアツと一緒に近くの公園に一服をしにいく。この仕事を始めてから、電子タバコに手を出すようになっていた。
仕事内容は金型制作。従業員はアツと社長である親父さん、ホンダさんという社員、そして僕の計四人。金型には製品部分とそうでない部分があり、アツと親父さんは製品部分。僕とホンダさんはそれ以外の部分を担当していた。つまり仕事の核となる部分は、まだやらせてはもらえてない。
鉄の塊を持ち運び、バラバラに分解し、油で汚れを洗い落とし、ドリルで穴を開け、円盤で研磨をかけ、図面通りの形に仕上げていく。一日中立ちっぱなしの肉体労働。機械の激しい音の後ろには、古めの歌謡曲がエンドレスに流れていた。僕は耳馴染みの薄い曲を少しずつ覚え、たまに流れる九十年代以降の楽曲に喜び、静かに胸を躍らせていた。
三時間ほど午前の作業をすると、ようやく昼休憩。弁当が配達されるので、業務用の石鹸で入念に手を洗い、味噌汁と飲み物を各々用意する。ウォーターサーバーと段ボールに入った缶飲料は自由にしていい。この準備をしている時間が、毎日のささやかな、唯一とも言える楽しいひと時。
社長とホンダさん、僕とアツはそれぞれグループのようになり、離れた席で食事をとる。なんとなく暗黙のルールでそういうことになっていた。
言葉少なげに黙々と弁当を平げ、僕らは立ち上がり外へ出た。夏の日差しが、じっとりと顔を差した。
「どうよ、そっちの作業は」
缶コーヒーを片手に歩きながら、アツが言った。
「とりあえず穴開けと研磨はかなり慣れたよ。ドリルを研ぐのが全然できないけど」
同じコーヒーを一口飲み、僕は答えた。
「あー、それできるようになったら俺も教えて欲しいわ。研磨もほとんどやったことないし、お前がマスターしたら先生になって教えてくれよ」
「ホンダさんから教わらなかったの?」
「いやーあの人はダメだ。関わりたくねえもん俺」
無口で独身でメガネ。被っている帽子は絶対に外さない中年おじさん。人当たりがいいとは言えないホンダさんと、体育会系ノリでガンガン営業などを熟すアツは、何度か仕事のことでぶつかっているらしく、ほとんど口を交わさない仲だ。
「研磨はやっぱリズムだからさ、お前に向いてると思うよ。ホンダなんか早く抜かしてくれよな」
「そうかな? まぁ頑張ってみるけど」
僕らは公園のベンチに腰を下ろした。
「本当高校の頃みたいだよな、こういうの」
アツがふかした電子タバコからは、大量の煙が生み出され、もうもうと空を舞った。
「うん、確かに。毎日毎日飽きもせずに何話してたんだろう」
目の前の広場を眺めながら、僕は呟いた。
高校の帰り道、僕らは通学路が全く逆にも関わらず、毎日同じ方向へ進んでいた。途中コンビニに寄って飲み物などを買い、小さな公園に立ち寄り、そこで数時間ぶりのタバコに火をつける。ブランコの左側に僕が座り、その隣にアツが座る。いつの間にかそれがお決まりになっていた。
学校の話、音楽の話、恋愛の話、地元の話、過去の話に未来の話。ほとんどノンストップで毎日話し続けていた気がする。高校で唯一できた深い友達がアツだった。客観的に見ても僕らはとても仲が良かった。
タバコを何本が灰にすると、そのままアツの家に流れるのもパターンだった。音楽を流しながらひたすら喋り続け、暇になったらギターを手に取り、ミュージシャンの真似事をした。ふざけてお互いの肩を腫れるまで殴り合ったり、テレビドラマの再現を二人でしてみたり、ヘンテコなコントのようなことをいつもやっていた。それが楽しすぎてその後のバイトによく遅刻した。
予定がない日はバイクでそこら辺を走り回った。お台場や横浜、川崎など、少し遠いところにアテもなく行っては、またたくさんのタバコを灰にし、今では覚えていないようなことを飽きるまで話した。
お互いの地元友達ともなんとなく顔見知りになっていたので、その流れでアツの地元の仲間と一緒に、初めてのオリジナルバンドを組んだ。
当初は僕とアツで曲を作ってくるツインボーカルの形式だったが、段々とお互いが争うようになっているのを感じてしまい、僕は途中からベーシストに専念し、アツがリーダーのバンドになった。彼には自然と周りに人が集まってくる魅力と、なんでも器用にこなす要領の良さがあった。色んな話題を深いところまで話せるのは、ごく一部の地元の友人とアツだけだった。
似ているようでどこか違い、口には出さずともお互いを認め合い、クラスは別だったけどたくさんの時間を共に過ごし、「もう話すことがない」を何度も超えて話をしていた。
そんな友達と、現在一緒に仕事をしている。僕はとてもラッキーな人間だ。僕はクソだけど、周りの人間はいつだっていい人ばかりだった。
——このまま一生続けていくのかな。それも悪くないな。どっかで適当に彼女でも見つけてくれば、それなりにモチベーションになるかな。結婚とか子供とか、まだ想像もできないけど、このままいけばそういう超普通の、どこにでもいるような人間に、なれたりするのかな。
「あのアメリカの子はどうなったのよ?」
とアツは言った。
「ああ、あいつはただの友達って感じだから、別にどうこうなるってことはないよ」
と僕は答えた。
リクとは未だにちょくちょく連絡を取っていた。彼女は既に日本に住み始めていて、毎日働き出したところだった。
「ふーん。お前も早く家庭持っちまえよ。その方がこっち的にも安心だよ」
「うーん、そうかなあ」
アツは奥さんさんの三人暮らしだ。一度家にお邪魔させてもらったらそこはかなりいいマンションで、僕は思わず面食らってしまった。子供はもう一人作る予定らしく、彼は毎日僕が定時に帰った後も、長い時間作業を続けているようだった。
「子供とか嫁とかを持つのも悪くないもんだよ。自分の為じゃなく人の為に生きてるって感じでさ。これが俺の使命なのかなって思ってるよ」
そう言いながら、疲れた顔で笑うアツ。高校の頃に見ていた横顔とはまるで違っていた。全ての言動に、一家の大黒柱らしい重みのようなものがあった。昔のチャラチャラとした軽い楽しげなノリは、もう一切なくなっていた。
人は年齢と環境でここまで変わるものなのか、と驚いている。昔とほとんど変わっていない僕は、なんだか複雑な想いがあった。嬉しいような寂しいような、アツにしっかりと気を使ってる自分が恥ずかしいような、立派な彼を褒め称えてあげたいような、でもなんだか少しだけ泣きたくなるような、そんなニュアンスの。
「でもさ、高校時代に戻れるなら、俺本気で戻りてえよ」
唐突にアツはそう口にした。
「まじで? 俺はもうあんなつまんない生活嫌だなあ」
「それを含めて楽しかったじゃん。もっと死ぬほど遊んで、馬鹿やりまくって、バンドもうまいこと楽しんで、勉強も真面目にやって、そのまま大学もちゃん通って……、あん時卒業しとけば良かったなあって、よく思うよ」
「そっか、なるほどね」
僕は過去になんて絶対に戻りたくない。男子校の生活なんて一度経験すれば充分だ。そんな事実とは異なる美化された輝きには騙されない。小学校も中学校も面白いと言い切れるものではなかった。もうこのまま、死ぬまで突き進んでいってくれ。
やり直したい瞬間——。僕が思うのはただの一点だけ。他はもうどうでもいい。でも、これだけはふとした時に、頭に浮かんでしまう。
——もしあのままバンドが続いていたら、今頃どうなっていたのだろう?
ある日ヒデさんから連絡が来た。
「久しぶりに誕生日に轟音祭やるからドラム叩いてよ」
ヒデさんの後ろでドラムを叩いたことは何度もあった。喧嘩屋や別のバンドでも、ドラムがいない時はよく呼び出され叩いていた。誘われたものはおそらく一度も断らなかったはずだ。色んな経験が全て活かされると思っていたし、お世話になっているというのもあり、何でもいいから力になろうと思っていた。
僕は返事を送った。
「ヒデさんの頼みなら断れないっすよ」
久しぶりに蒲田トップスにやって来た。本当に久しぶりの轟音祭だ。地下への階段を降りると、受付には数年ぶりに見るミヤさんの顔があった。
「うーっす、久しぶり」
いつもの目が細くなる笑顔で僕を迎えてくれた。
「お久しぶりです。今日はお願いします」
たぶん僕も同じような笑顔でそう言っていた。
扉を開けフロアに出るともう既に演奏が始まっていた。懐かしい匂いと音圧を感じた。僕はとりあえず荷物を楽屋に置き、再びフロアに戻った。すると誰かが奥の方で、寝転がっているのが見えた。
タマだった。
たぶん、既に酔っ払っている。
彼女がいることは知っていた。僕はどういう風に顔を合わせればいいのか、全くわからないままこの場に来ていたので、このヘンテコな状況を逆に利用することにした。僕は寝ている彼女に近付き、背中をつま先でトントンと二回蹴った。
彼女はゆっくりと動き出し、うーん、といった感じで、ゆっくりとこちらに顔を向けた。暗いのでたぶん何も見えていない。僕はしゃがみ込み、言った。
「久しぶり」
彼女は目を細め、睨むよう僕の顔を見た。逆光で何も見えてない様子だ。しばらくすると、何かに気付いたように、急に僕の手を掴んで起き上がった。僕らは暗いフロアで見つめ合う形になった。
彼女の髪は胸元辺りまで伸びていた。それ以外は何も変わっていないように見えた。違うのは、僕の周りにメンバーがいないことぐらいか。
タマは僕の手を掴んだまま立ち上がり、急ぎ足で入り口の方へと引っ張った。そのままミヤさんのいる受付を抜け、階段を急いで登り切ると、まだまだ明るい外へと出た。
「こっち来てください」
僕の手を引きながらずんずんと進んでいくと、近くの駐車場まで辿り着いた。手を離し、タマがしゃがんで壁にもたれかかったので、少し距離を保ち、僕もそれに続いた。
「お久しぶりです」
昔と変わらない声でタマは言った。
「うん、久しぶり」
僕はほとんど顔を見ずにそう返した。お互い顔を半分以上、手や服や髪で隠していた。
「髪短くなりましたね」
とこちらを見て言った。
「うん、まぁね。そっちは逆に長くなったじゃん」
僕もチラッと視線をやった。
「はい。今伸ばしてるんです」
「そっか」
僕は正面に見えるコンクリートに向かって言った。
「今日来るって知ってたんですけど、なんか、本当に来るとは思わなかったです」
なんだそれ、と軽く笑いながら僕は言った。
「そりゃ来るよ。ヒデさんに呼ばれたからさ」
「喋り方とか歩き方とか、変わってないですね。あと匂いも」
「そうかな? 自分じゃよくわからないけど」
と僕が言った後、沈黙が流れた。訊きたいことはたぶん、いくらでもあるはずだ。しかし、これといって、何も出てこない。
「……最後に会った日、なんて言ったか覚えてます?」
固く閉ざされた蓋に手を触れようとするタマ。
「……さあ?」
「うち、あなたが殺しにくるんじゃないかと思って、待ってました」
彼女がいかにも言いそうなヘンテコな台詞。
「そんなことするわけないじゃん」
僕は立ち上がり、言った。
「そろそろ戻ろう。勘違いされても嫌だしさ」
タマも立ち上がった。
「はい、そうですね」
こうして僕らは三年振りの再会を果たした。
僕らはゆっくり歩いてトップスに戻った。
風の頼りで、そろそろここが閉店すると聞いていた。もうこの場所に来るのも最後かもしれない。
僕はスティックで太股を叩きながら出番を待った。ドラムをちゃんと叩く為にアルコールは口にしなかった。相変わらず学生のバンドが多く出演していたけど、数年前よりは人が減っているように見える。僕は色んな思い出に浸りながら、トップスと轟音祭の空気を肌で感じていた。
しばらくするとタマがステージに上がって、セッティングしているのが見えた。彼女は何故か出会った時と同じく、紺色の浴衣を着ていた。僕は夢でも見ているんじゃないかと思った。
爆音でSEが流れる。
「こんばんは! ジッピーです!」
ライブが始まった。相変わらずのシンプルなパンクロック。あの時に観た厚木のステージと変わらない姿がそこにあった、と思ったけど、さすがに少しは変わっているはずだ。あれからもう六年もの時が過ぎている。恋人じゃない彼女のライブを観るのは、本当に久しぶりだった。
懐かしい曲を何曲か演奏し、MCに入る。
「いやー、轟音祭久しぶりだね。うち今大阪住んでるし、シノさんはこの企画嫌がってるから、ジッピーでは本当に久しぶりだよ」
「だってあんた轟音祭の日飲み過ぎるから、ライブにならないんだもん」
「そうでしたっけ? まあうちはいつも飲んでからステージに上がるからね。飲まないと怖くてやってられないんすよ」
「それは私が一番よく知ってる」
「ってかさこれ良くない? 懐かしくない?」
「あんたが急に浴衣持ってこいなんて言うから」
「へへへ、でも季節的にちょうどいいじゃん」
「そうだけどさあ」
「今日はなんと会場に元彼がいるんだよ。だからこれ着ようって思ったんだ。うちらが出会った時、ちょうどこれ着てたからさ」
「はいはい、良かったね」
「もー、相変わらず冷たいなあ、シノさんは。久々の轟音祭で浴衣なんか着ちゃって、元彼がこの会場に居て、うちは今、ものすごい緊張と興奮の中にいるっていうのに」
きっとこれは、僕のことを話しているんだろう。たぶん、間違いなく。
「このライブハウスでは、色んな出会いがありました。元彼ともよくここで会ってて、打ち上げの後にうちの大学に着いてきて、一緒に授業を受けたことなんかもありました。先生ともここで何度も会って、うちはジッピー以外にも色んな経験をさせてもらいました。ここはあらゆる思い出が詰まった場所です。ライブハウスはうちらの遊び場だから、無くなってしまうのは寂しいです。でも仕方がないことだと思います。どうにもならないことが、人生ってやつにはたくさんあるんです。うちはライブハウスに憧れてバンドを組みました。メンバーとも、先生とも、元彼とも、元々彼とも、今の人とも、全て音楽を通して出会いました。音楽は人と繋がる為の最高のツールだと思います」
初めて君を観たのは厚木のライブハウス。初めて喋ったのは下北沢のライブハウス。その時、何故か君は涙を流していた。僕はそれがおかしくて堪らなかった。初めてキスをした時は僕が泣いていて、付き合うことになった日は二人で泣きそうになっていた。どっちもライブハウスの帰り道だった。全部ちゃんと覚えている。
「うちはライブハウスに出続けたいです。売れなくても、年をとっても、バンドを辞めてしまっても、ずっと遊び続けていたい。もう会えなくなってしまった人とも、またいつか出会えるような気がします。今日もこうして、元彼と再び会うことができました。うちは彼がやっていたバンドのファンでした。そのバンドでドラムを叩いている彼が好きでした。ここで見た彼らの姿を、うちはずっと忘れないと思います」
タマは最後に、いつものように叫んだ。
「ありがとうございました! ジッピーでした!」
僕は相変わらず、タマに釘付けになっていた。やっばり彼女は魅力的なままだった。僕はあの頃とは全く違う意味で、同じことを思った。
——僕らの人生が交わるなんてありえない。
悲しいかどうかもよくわからない。戻りたいとも思わない。ただ僕はあの時、交わらずにはいられたかっただけ。こうなることはわかっていたのに、ああせざるを得なかった。そこで初めて幸せの味を知った。
僕らの出番が近付いて来た。僕はこれを、人生最後のステージにしようと決めた。
ドラムの椅子に腰を掛けて、セッティングを座る。機材はスティックだけしか持ってきていなかった。音を鳴らすだけならこれで十分だ。ギターを準備するナカくんは、もうすっかり大人の顔になっていた。初めて見た時はまだまだあどけなさが残る高校生だった。
セッティングが終わり、僕はドラムの椅子に一人座り、フロアタムを使ったエイトビートを叩き始めた。これが一曲目のイントロへと繋がる。ライブの始まりだ。ステージに熱が帯びていく。
僕はいつものように、ガムシャラにドラムを叩いた。軟弱金魚でもヒデさんの後ろでも、ドラマーとしてステージに上がる時はいつも同じ気持ちだ。
今この場所で死んでもいい。
僕はずっと、ライブ中に死にたかったと思う。ステージの上で死ぬのが一番カッコいいから、その為に命を削ってドラムを叩いていた。生きることが苦手な僕にできる、唯一の反抗だったのかもしれない。
アツのようにはなれる気がしない。だからといって音楽をもう一度とも思わない。どうしたらいいのかはわからないけれど、音楽とはここでさよならしなければならない。それが僕なりの罪滅ぼしだ。様々な想いを断ち切るように、僕は力を込めて音を鳴らした。
「久しぶりの轟音祭です。トップスが無くなるっつーことで、急遽人を集めて誕生日に開かせてもらいました。この企画は俺が思っている以上に色んな想いがあって、色んな人と人の繋がりが生まれたイベントみたいです。俺は音楽で誰かと仲良くなる為にバンドを始めました。だからこれはとても喜ばしいことです。隣にいるナカもこんなに立派になりました。通信高校でたまたま出会って、その後僕が通った大学へ進み、今は同じ職場で同じ仕事をしているんです。すごくないですか?」
ヒデさんは相変わらずヒデさんのままだった。あの時より少しお腹が出ていて、シルエットが少しかわいくなったけど、他はちっとも変わっていない。
「奇跡の連続で今があります。もう長いこと続けてますけど、出てくれなくなったバンドもたくさんいます。連絡が取れなくなった子も少なくないです。でもこうして、新しい子たちも出てくれてるし、今でも集まってくれる昔からの仲間も少なからずいるんです。後ろにいるこいつもそうです」
ヒデさんは僕を親指で指した。
「彼がやっていた軟弱金魚というバンドが俺は好きでした。轟音祭に出た中で一番カッコよかったかもしれません。泥臭くて、真っ直ぐで、誰にも媚びない彼らのライブは最高でした。今は無くなってしまって、他のメンバーは何をしているかもわからないですけど、こうやって彼は僕の後ろでドラムを叩いてくれてます。こんな頼もしいことはないです。おい、コジマ、なんか喋れよ」
突然のフリに少し驚いた。
「え? あー、はーはー。マイク喋って大丈夫ですか?」
ミヤさんの方を確認すると、両手で大きな丸を作っていた。
「えー、お久しぶりです。コジマという者です。お前のことなんか知らねえよって人がほとんどだと思うので、手短に終わらせます。……僕は高校の頃からバンドをやっていました。人生初のライブはここ蒲田トップスでした。その日の対バンで知り合った仲間と軟弱金魚というバンドをやっていました。僕はそのバンドで売れる為だけに生きていたので、それ以外の道は考えていませんでした。そしてそれと同時に、僕は本当に好きな人と付き合うことができました。この轟音祭で出会った人です。僕は全てをうまくやろうと思っていました」
何も考えなくても、言葉がすらすらと出てきた。フロアはしんと静まり返っていた。
「でもまあ、人生ってのはなかなか思い通りにはいないもんで、両方ともうまくやってやろうという想いが強すぎたのか、両方ともめちゃくちゃに壊して、最悪な終わり方をしてしまいました。そこからの数年間は結構地獄で、今生きていることが奇跡に思えてます。本当に。現在は友達の会社で働かせてもらっています。ここで初ライブを一緒にした高校と同級生の会社に、奇跡的に入れてもらえました。感謝しかないです。そいつには子供がいます。この前、軟弱金魚のメンバーの一人に会ってきたのですが、彼も奥さんのお腹に新しい命が宿っていました。他のメンバーにも子供が一人います。彼らはもうこの場所にはいません。なんだか僕だけが取り残されたような感覚です。僕だけが一人、うまく大人になることができませんでした。でも、同じような気持ちを持っている人が、ここに集まってきているんだと思います」
僕は客席を見渡した後、PAブースにいるミヤに目線をやった。
「蒲田トップス、ミヤさん、ありがとうございました。初めてライブをやらせてもらったこの場所を、僕は今日、最後のステージにしようと思っています。最初から最後までお世話になりました。そして轟音祭、ヒデさん。たくさんの思い出と出会いに感謝します。バンドをやることが僕の生きがいでした。ステージに上がる機会をたくさんくれて嬉しかったです」
あとはもう——。
「最後に……、元彼女がここにいるので、言っておきます。こんなクソみたいな自分と付き合ってくれて、どうもありがとう。あなたには幸せと絶望を一生分もらいました。あんな恋愛はもう二度とできません。たぶんずっと忘れられないので、そのまま生きていこうと思います。過去に戻れたとしても、僕は同じ道を選ぶと思います。だから何一つ後悔していません。……では、今日は本当に、ありがとうございました」
お礼を言ったあとマイクを元あった位置に戻すと、いくつかの拍手が上がった。恥ずかしさと嬉しさが込み上げ、僕は本当に少しだけ涙が出そうになった。
そして最後の力を振り絞り、僕はドラムを叩いた。どれだけ必死に叩いても、やっぱりステージ上で死ぬことはできなかった。スティックが折れるまでクラッシュシンバルを鳴らし続け、全員で最後の音を合わせ、それが鳴り止むと同時に、ライブが終了した。
出番が終わり、僕は立て続けに二杯ビールを飲んだ。ライブ後に飲むアルコールはやはり格別だった。出番が最後で我慢していた分余計に染みた。
その後、フロアにテーブルとツマミが出され、終電間際まで打ち上げをすることなった。僕はたくさんビールを飲み、色んな人と話をした。お客さんの中にとても懐かしい顔があり、嬉しくなった僕は、馬鹿みたいに騒ぎアホほど飲んだ。近くにはずっとタマの姿があった。
一時間半が経過し、そろそろお開きということになった。トップスとミヤさんに別れを告げ、みんな散り散りになりながら言葉を交わし、それぞれの帰路に就いていった。再会の約束をすることはなかった。
気がつくと駅の近くまで来ており、僕の隣には何故かタマだけが残っていた。
「あーあ、終わっちゃいましたね」
行き交う人々を見つめながら、タマは言った。
「久々に楽しかったなあ」
僕はフラフラと揺れながら答えた。
「そうですね」
彼女はこちらに顔を向け、笑みを見せた。
「終電まだあるよね?」
「ええ、今日は実家に帰るんで、まだまだあります」
僕らは沈黙した。
「じゃあとりあえず行こっか」
僕はタマの肩に腕を回した。
「え、どこにですか?」
彼女はキョトンとした顔をしていた。
「まーまー、とりあえず電車乗ろうよ」
僕はアルコールで脳ミソがやられてしまっていた。
「でもうち、帰らないと……」
「大丈夫大丈夫。今日で最後だし、もう二度と会うことないからさ」
タマは無言で僕を睨んでいた。僕も彼女を睨み返した。
「……はー、もう。しょうがない人ですね、本当に」
罰が当たっても構わない。
僕は初めて、罰を受ける覚悟を決めて罪を犯した。
僕らは改札を抜けた。
品川まで向かい、乗り換えて目黒で降りることにした。僕は電車に揺られながら、彼女の顔をほとんど見ることができなかった。酔いに任せた会話をポロポロと交わし、二十分ほどして目黒に到着した。
駅からアパートまでは歩いて約十分。僕は懐かしい道を選び少し遠回りをした。タマは絶妙な距離感で隣を歩き、僕は途中コンビニに寄って酒を買い足した。アルコールがなければこんな現実耐えることができなかった。
歩きながら平凡な会話を交わしたり、歌を歌ったりした。あなたの影響でこれ聴いてます、と彼女はあるアーティストの名を上げた。僕も彼女の影響で聴き始めた音楽がいくつかあった。最近になってようやくまた聴けるようになっていた。
僕は途中から手を繋いだ。どちらが仕掛けたのかは覚えていない。僕はこれを夢の中の出来事だと思うことにした。バチが当たるなら当たればいい。覚悟は決めている。
一人暮らしのアパートに辿り着いた。玄関を開けると猫が僕らのそばに寄ってきた。以前生放送で知り合った人に拾った猫をもらい、実家を出る時に一緒に連れてきていた。タマは猫に話かけながら奥へと進み、布団の上に腰を下ろした。
僕は散らかった部屋をある程度綺麗にし、ゴミなどをまとめ、タマの荷物を邪魔にならない場所に移動させた。しばらくしてからふとタマを見ると、彼女はもう寝息を立てていた。朝早くから出番があったので疲れていたのだろう。
僕はシャワーを浴び、買ってきた酒を一人でチビチビと飲みながら、タマの寝姿を見ていた。ここに彼女が存在していることが不思議で仕方がなかった。数年会っていない間に、彼女の実体は僕の中では無くなり、想像上の人物のようなものになっていた。
しばらくすると眠たくなったので、彼女にそっと近付き、起こさないように静かに隣で横になった。寝るスペースはここしかない。アルコールのせいで耳元で心臓の音がした。彼女の方に目をやると、ぐっすりと寝息を立てて眠っている。僕はそれをしばらく眺め、胸の痛みと闘いながら、意識がなくなるのじっとを待った。
目が覚めると、タマの顔が目の前にあった。カーテンから朝日が漏れ、顔がはっきりと認識できた。僕らは抱き合うような形でいつの間にか眠っていた。彼女は僕が起きた気配で目を覚ましたようだった。
「ふぁー……おはようございます。んー? 眠れました?」
欠伸をしながら眠け眼でタマは言った。
「うん、気付いたら寝てた。酒も入ってたし」
僕は少しだけ距離を取り答えた。
「そうですか、うーん、すっかり朝ですね」
彼女は身体を伸ばしながら言った。
「ところでうち、なんでここにいるんですか?」
「わかんない。なんで来たの?」
彼女は呆れたような顔をした。
「もう、あなたが連れてきたんでしょ」
「そうだっけ?」
僕らはそのまま、どちらからともなくキスをした。彼女はやはりちゃんと実在していた。夢なのか現実なのかさっぱりわからなかったが、僕らはそのまましばらくキスを続けた。
「セックスするなら、お金ください」
顔を近付けたまま、タマがそう言った。
「は? なにそれ?」
僕は思わず彼女から離れ、笑ってしまった。
「だってこのままやるなんて、うちだけ損じゃないですか。リスクしかないですよ。お金貰えれば割り切ってできます。仕事ってことにします。だからお金ください」
あまりにも彼女らしいヘンテコな提案だった。僕は笑ったまま質問した。
「いくら欲しいの?」
彼女は目線を上に向け、うーん、と唸った。
「いくらくらいですかね? 一万円とか?」
「そんな安くていいんだ」
「そんなもんじゃないですか?」
僕はそばに転がっていた財布に手を飛ばした。
「払うよ。払ったら何してもいいの?」
「はい。いいですよ」
彼女ニコッと笑った。
「その前にシャワー借りてもいいですか?」
彼女がシャワーを浴びている間、僕はコンビニへ行き、避妊具と適当な朝ごはんを買った。なんておかしな組み合わせだろうか。二日酔いで酒を飲む気にはならなかった。部屋へ戻ると、濡れた髪を結び、小さく座って猫と遊んでいるタマがいた。
「メシ買ってきたけど、食べる?」
僕はそう言いながら彼女の前に座った。
「ありがとうございます。あとでいただきます」
「酒は買ってないっすよ」
「こんな朝っぱらから飲めないです。まだ少し残ってますし」
僕は袋から避妊具を取り出し、布団の上にポンと置いた。
「本当にいいの?」
彼女は澄ました顔で小さく頷いた。
「浮気じゃないです。お金もらいますから」
僕はタマに一万円を渡した。彼女はそれを受け取ると、ポケットにクシャッと仕舞いこみ、両手を僕の方へと伸ばした。
僕は手の間に吸い込まれるように近付き、抱きしめながらキスをした。悲しくなるほど違和感がなかった。そのまま押し倒すようにキスを続けた。
もしあのまま付き合い続けたら、今頃僕らは、どうなっていたのだろう。こうして二人で同じ部屋に住んでいたのだろうか——。
事が済み、僕らは天井を眺めながら寝転んでいた。
「仕事はどうです?」
タマはちらっとこちらに目をやった。
「なかなか楽しいよ。覚えることいっぱいあって新鮮で」
僕は天井を見ながら、視界の隅にいる彼女に答えた。
「ふふ、よかったですね。働いてるとこ見てみたいです」
そう言いながら彼女も天井を見つめた。
「真っ黒な作業着で毎日油まみれになってるよ」
「へぇー。うちも今仕事で作業着着てますよ」
「そうなんだ」
深くは訊かないことにした。
「なんかお似合いだと思うよ、今の人」
「はい。よく言われます」
「ふーん……」
僕は天井に手を伸ばし、なんとなくそれを眺めた。
「……今更戻りたいとか思わないですよね?」
彼女の手が僕の腕に絡んできたので、僕らはそのまま手を繋いだ。昔と変わらず、僕と同じサイズのしっかりとした手だった。
「うーん」
僕はしばらく考えを巡らせ、答えた。
「死んじゃうならいいけどね。あと数年の命なら、全部投げ出してでも一緒にいたいと思うよ。でもこのままずっと生きなきゃならないなら、ちょっとしんどいかな」
「そうですか」
「……あのままだったら良かった?」
僕がそう訊くと、タマは少し間を置き、繋いだ手を眺めながら答えた。
「あのまま付き合ってても、うちは今の人選んでたと思いますよ」
「バンドが続いてても?」
彼女の顔を見て言った。うーん、と唸り、口を開いた。
「それは、ちょっとわかんないですけど、また観たいなあって思います」
沈黙が流れる。
「最近よく思い出すよ、あのバンド」
「うちもです」
「あ、動画観た? そういえば」
「観ましたよ。もう、泣いちゃいました。……やっぱり敵わなあって思ちゃいます、いつ観ても」
また沈黙。
「全部夢だったみたいだよ。あのバンドやってたのも、あなたと付き合ってたのも」
「そうですね。あんなドラマチックな恋愛、もう二度とできません」
僕は繋いでいた手を離し、身体をタマの方に向けた。
「ってかさ、今俺一人暮らししてるんだよ? すごくない? あの俺が、普通に毎日働いて、ちゃんと生活してんだよ?」
僕がそう言うと、タマは笑いながら僕の頭を撫でた。
「すごいですね。よく頑張りましたね。きっとあの頃よりいい男ですよ、今のあなた」
僕はそのままタマの胸元に顔を埋め、涙が出そうになるのをグッと堪えた。もう会えないと思っていた人に、誰よりも聞きたかった声で、ようやく褒めてもらえた。
タマが好きだ。どれだけ時間が経っても、これだけは変わらない。離れていても、誰かの彼女や奥さんになっても、もう二度と会えなくても、ずっと好きだ。
そして僕らは再び重なり合った。やっぱり酒がないとなんだか恥ずかしくて、時々二人で笑ってしまった。
「うち、そろそろ行かないと」
買ってきたパンを齧りながらタマは言った。
「え? 今日一日は何でもしていいんじゃないの?」
同じ物を食べながら僕は訊いた。
「一万円ならこんなもんです」
「追加で払えばいいの?」
タマは僕をじっと睨んた。
「もう、バカなこと言わないでください」
「へーい」
僕らはしばらく黙ってパンを食べた。僕はタマ触れ合うように座り、彼女の手をずっと握っていた。
「どうする? 電車で帰る?」
「んー、どうしよう。……バイクあるんですよね? 家まで乗っけてってくださいよ」
夏に中型免許を取ったばかりだった。
「え、まじで? いや、バイクはあるけど、俺、後ろに人乗せたことないんだよね……」
彼女はニコッと笑い立ち上がった。
「じゃあうちが初めてですね。事故らないでくださいね。この状況で事故ったら洒落になりませんよ?」
そう言い終えると、タマは手を差し出してきた。僕はそれに捕まり、勢いよく立ち上がった。
出掛ける準備をし、僕らは駐輪場まで歩いて向かった。酒が入っていないので、道中恥ずかしくて恥ずかしくて堪らなかった。
「なんかめっちゃ恥ずかしいんだけど」
歩きながら僕は言った。
「うちもですよ。なんなんですかこれ」
タマは気まずそうな笑顔で答えた、
「やっぱ酒が入ってないとダメだな」
「ですね。きっとうちらは、お酒かセックスがないと、うまくやれないようにできてるんですよ」
駐車場に着き、僕らはバイクに跨った。初めての二人乗りは恐怖でいっぱいだった。タマは僕にくっつかないように上手く後ろに乗っていた。
「大丈夫? その乗り方で」
「平気です。よくマコトさんに乗せてもらってたんで、慣れてますから」
時速六十キロ以上スピードで風を切った。僕は事故らないように必死でハンドルを握った。あまり道がわからなかったので、適当に走り、ナビはタマに任せた。
しばらく進むと、二人で通った懐かしい道に差し掛かり、なんだか鼻の奥がツンとした。
このまま家に着けば、もう二度と会うことはないだろう。本当に最後の帰り道だ。ここで別れたらもう二度と交わることはない。僕はタマに気付かれないように、静かに涙を流した。
信号待ちをしていると、背中に何かが当たったのを感じた。ヘルメットを被ったタマの頭だった。
「もう二度と会うことないのかなあ」
とタマは言った。
「……さあ?」
と僕は答えた。
タマは僕に近付き、身体を抱き締めるように捕まった。僕は身体を震わせて泣いた。ヘルメットの中で、流れる涙も鼻水も、全部そのまま飲み込んだ。
一時間以上走り、ようやくタマの家に近付いてきた。辺りはもう暗くなり始めていた。近くの公園にバイクを止め、少し遠回りをしながら、家に向かって歩いた。
仕事のこと、音楽のこと、今住んでいる場所のこと、色々なことを話した。
「何でこんなことになったんでしょうね」
彼女は足元を見ながら言った。
「わかんない。まぁでも、いいんじゃない? 小説みたいで、なんかおもしろいし」
「もー、いつもそうやって誤魔化すんだから。現実じゃないみたい、自分の意思じゃないみたいだって」
「そうだっけ?」
そんな気もする。
「そうですよ。あなたは本当に、いつもそう」
タマは呆れようにそう言うと、その場で立ち止まった。
「もうここまででいいですよ」
「うん」
僕も立ち止まった。
向かい合って、抱き合って、キスをした。それはしばらく続いた。自然と涙が流れ、僕はそれを止めることができなかった。彼女の顔は暗くてあまり見えなかったけど、きっと泣いてはいないだろう。彼女の涙を見たのは、初めて言葉を交わした瞬間の、たった一度だけ。
僕は気持ちを伝えたかった。今まで彼女に対して思った全ての感情を知ってほしかった。あまりに膨大すぎて言葉にはすることができないから、頭の中で強く祈った。
——キスで全てが伝わればいいのに。
どれだけ好きだと告げても、どれほどの愛を手紙に綴っても、タマへの想いを説明し切れなかった。あの頃僕は、何度もこうを思っていた。
僕らはどちらからともなく、唇を離した。
「……じゃあ、そろそろ行きますね」
「うん」
僕は少しだけ離れ、タマの手を握った。
「送ってくれて、ありがとうございました」
「うん。事故らなくて良かったよ」
「ふふ、本当ですね。人生めちゃくちゃになるところでした」
二人で笑って、最後にもう一度だけキスをし、繋いでいた手を離した。
「じゃあお幸せに」
僕はそう言いながら、彼女の答えを予想した。
——うちはいつでも幸せですよ?
彼女から出てくる言葉は、いつだって彼女そのものだった。
「バイバイ」
僕は手を振った。
「さようなら」
タマも僕に手を振り返した。
そしてそのまま、くるりと反対を向き、歩き出した。僕もそのまま踵を返した。
お互いに振り返ることはなく、暗闇の中を真っ直ぐに、別々の方向へと進んで行った。
こうして、僕らは別れた。
きっと僕らの線は、もう二度と交わることはないだろう。だって僕らはどんな時でも、ライブハウスで繋がっていたのだから。
僕は一瞬の内に心を奪われた。そこには様々なドラマがあった。全ては防音扉の中で起こった出来事。外にいる人達にはわからない、僕らだけしか知らない物語。
あの日、タマと一緒になる決意した時、僕はたしかに両手を挙げるほど喜んだ。しかしそれは、もう一つの意味を孕んでいた。そのことを知っていた彼女の目に、一体僕はどのように映ったのだろうか。
こうなることがわかっていて、それでも運命の人ならばと、命を捨てる覚悟で、飛び込んだ——。
あの空間でしか輝けなかった。安定の未来なんて考えもしなかった。全てを捨ててあの場所にいた。でも、だからこそあの瞬間だけは光り輝けた。
クボタは天才だった。それ故なのか欲がなく、地位や名誉よりも人を選び、音楽よりも愛を選んだ。他の二人もそんな彼だったからこそ命懸けで着いて行き、夢を見ることができたのだろう。
二つの大きな才能。僕はどちらにも憧れ、どちらとも生きることを選んだ。大きな力というのは、表面では誰かに輝きを与えながらも、その裏では、誰かを死に追いやるほど残酷な生々しさを持つ。僕はその二つ渦のようなものに飲み込まれ、自分を失ってしまった。
もうあんなすごい音楽を奏でることも、あんなすごい恋愛をすることも二度ない。何故こうなってしまったのか、何の為に生まれてきたのか、これからその答えを見つけていくしかないのだろう。
それでも世界は続いていく。
全ては当たり前にあると思っていた。
あの頃僕は、何もわかっていなかった。
奇跡の連続でしかなかったことを。
全てに噛み付くように生きていた。
でも、僕の周りに敵なんかいなかった。
そう見えていたものは、弱い自分が生み出した幻影だった。
僕以外に悪い奴なんていなかった。
ただの一人として。
今もどこかでみんな生きている。
僕もなんとか、ここで息をしている。
僕の罪は消えない。
だから抱えていくしかない。
僕はきっと幸せにはなれない。
それでも生きるしかない。
音が鳴り止むまで、生き続けるしかない。
どんなにボロボロになっても、もうダメだと思っても、何もかも無くなっても、死ぬことさえできなくても、生きていればいい。人はきっと、生きてさえいればいい。
僕はただ、それだけを考えている。
そして最後、ステージの幕が下りる時、僕は両手を上げ、本当の意味を込めて、こう叫ぶんだ——。
『バンザイ!』
あとがき
やっとの思いで最後まで書き終えた。どこまでが本当で、どこまでが想像なのか、自分でもわからない。ただあの日々の出来事を、人生で一番濃かった数年間を、なんとしても形にしなくちゃいけないと思い、毎日書き続けた。こんなに長い文章を書いたのは、生まれて初めてのことだった。
書き始めた当初は、友達の紹介で入った町工場でバリバリ働いていた。この小説内にも出てくる高校時代の唯一の親友が、わざわざ救い手を差し伸べてくれた。とてもありがたかった。実家を離れ、猫と二人暮らし。厚生年金を払い、毎日職場に通った。なんだか本物の大人になったような気がして、誇らしげに生きていた。
しかし今現在、僕は無職だ。一生続けてもいいかなと思っていた仕事を、気付いた時には辞めてしまっていた。そしてよくわからないままこれを書いている。生きること難しさにぶつかりまくっている。やっぱり僕は、普通に生きることができない人間なんだと思う。人生って本当に大変だ。
たくさんの人を傷付けて、色んな人に迷惑をかけ、犠牲にしてきた。謝れた人もいるし、そうでない人もいる。この物語に書き切れなかったこともたくさんある。実はもう一つバンドをやったりもしていた。もっと様々ドラマがあった。でも、全てを書いていたら、きっと完結することはできなかったと思う。
本当に濃く激しく凄まじい、ジェットコースターのような日々だった。現実は小説よりも遥かに奇であった。まるで昨日の事のように、全てを手に取るように思い出すことができる。だから一度も詰まることなく、最後まで書き切ることができのかもしれない。
僕はもう三十才になった。二十代のうちに終わらせたかったけど、仕事終わりに酒を飲み、ダラダラと書いてるうちに過ぎてしまった。やっぱり人生ってうまくいかないようにできている。おっさんの文章なんて信じられないぜ! なんて言われたらどうしよう? 完成まで漕ぎ着けられたのが唯一の救いだ。
僕なんて本当にちっぽけで、本物のくそったれで、アホでバカでロクデナシだ。僕の人生の目標は、『自殺しないで生きていく』。これだけ。こんな当たり前のようなことでも、僕にとっては難しいのだ。それでもなんとか生きていこうと思う。だからあなたも生きぬいてほしい。人はどんなことがあっても、死にさえしなければ必ず生きていけるから、それを忘れないでほしい。
タイトルの『バンザイ』という言葉には、様々な意味が込められています。調べてみるとそれがわかると思います。喜びの裏には悲しみがあり、その奥には、更にたくさんの想いがあります。僕が残したかったのはそんな物語です。
そして僕は、バンドをやっていた頃の〝罪〟を書きたかった。バンドと罪を合わせて、バン罪。これを『バンザイ』と読むことにして、勝手に意味に含めました。
僕は罪深い人間です。たくさんの人を傷付けてきました。自分を傷付けることだって立派な罪になります。背負って、償って、もうこれ以上重ねないように生きていきたいです。例え立派な大人になれなくても、それだけは守っていきたい。
バンドは一人ではできません。恋愛もそうです。誰かと一緒じゃなければ、人は何もできないのかもしれません。
しかし、これだけは言えます。この物語は僕一人で書きました。自分と向き合って、蓋をしていた過去と向き合って、どこまで続くかもわからないトンネルを掘り続けるように、投げ出しそうになるのを何度も堪えて、時には誰かにバカにされて、枯れるほど涙を流しながらも、なんとか書き上げました。
音楽が無くなった僕に残っていたのは、唯一音楽よりも長く続けていたのは、書くことだけでした。
最後までやり抜いた自分を、僕はほんの少しだけ誇りに思います。
僕にできたのだから、あなたにも必ず何かできます。
一歩を踏み出せないあなたに、悲しみに暮れているあなたに、そっと寄り添えますように。
「大丈夫さ、すべてうまくいくさ」
最後に
軟弱金魚のみんな。
タマのモデルのTさん。
他にモデルにしてしまった人達。
あの頃お世話になったみなさん。
本当にごめんなさい。
出会ってくれてありがとう。
どうかお元気で。
どうか幸せに生きてください。
罪を償いながら、僕も生きていきます。
いつかまたどこかで。
2018年3月30日
追記——世界と戦おうとした君へ。
上記から四年後の2022年にこれを書いています。第一稿を書いた段階で力尽き、約四年間寝かせていました。ただいま推敲作業中で、もうすぐ小説が完成します。
去年の十二月、バンドやっている時に仲良しだった後輩が亡くなってしまいました。僕はそれを『次世代作家文芸賞』の締め切り五日前の今日、四月二十六日に知り、呆然としながらこれを書いてます。僕は昨日、自分が自殺未遂を繰り返す描写がある第九章を仕上げました。覚悟を決めて、誰にどう思われても構わないと、かなりリアルに、記憶を手繰り寄せながら細部まで書いたつもりです。まぁまぁうまく書けた気がして、僕は満足して一旦手を休めました。
そしてその数時間後に、悲しい知らせを聞きました。震えが止まらず、今たぶん熱が出てます。詳細は省きますが、彼は自ら命を絶ってしまいました。年の近い知人が亡くなるのは、この作品にも書いた同級生女の子に次いで二人目です。
自分の命はどうでもいい。でも仲良しだった後輩は違う。当たり前かも知れませんが、こんなにも強烈な悲しみが襲ってくるとは思いませんでした。
まさか彼が、しかも僕より先に亡くなってしまうなんて、本当に驚きだし信じたくありません。あまりの衝撃にずっと身体が痺れてます。でもこのタイミングでそれを知ったということは、何か書けということだと思うので、彼について何かしら書いてみたいと思います。
この物語を書いてる時、彼の顔が何度も浮かびました。登場してもらおうかとも思いましたが、書くことが増えすぎてしまうなと思い、やめておきました。
彼とはライブハウスで度々会ってました。軟弱金魚が解散した後、一人でバンドをやろうとした時に「ドラムやりますよ」と彼は声をかけてくれました。一度ライブをしただけでそのバンドはやめてしまったのですが、僕は彼のドラムがとても気に入っていて、自分の曲がバンドサウンドに仕上がっていくのが、堪らなく嬉しかったです。
彼は軟弱金魚のことを絶賛してくれていました。「今まで対バンした中で一番カッコいい」と、そういった類の言葉を僕にたくさんくれました。僕はそれがとても嬉しかった。
彼はタマ(のモデル。ここではタマと呼びます)と仲良しでした。同じ高校の同級生で二人とも軽音楽部出身。ライブハウスでもよく顔を合わせてました。僕は二人が話しているところ見て、なんか兄弟みたいだな、といつも思ってました。いつも二人で戯れあうように話をしていました。
ある日、彼は言いました。
「俺タマのこと好きなんすよね」
僕がタマと付き合っている時の話です。僕は少し驚きました。それは友達としてなのか、女性としてなのか、どういう意図があったのかは、今となってはわかりません。
ただ一つ言えるのは、彼は僕と同じような価値観を持っていた、ということです。ロックバンドのドラマーで、好きな音楽もなんとなく似ていて、バンド一直線で、ライブはパワフルで、軟弱金魚とタマが好きで、彼はスタジオで働いてもいました。書いてみると本当にそっくりですね。僕らもまるで兄弟のようです。
ところで、作中にも出てきましたが、僕は兄と話すことができません。中学時代に本当にしょうもないことをキッカケに話せなくなりました。それはいまだに続いてます。別にキッカケは大したことではありません。しかし、兄と喋れなくなった、という事実は僕にとっては大きな出来事でした。家にいても気まずくて、お互い避けるように暮らし、なんだか常にギスギスしてました。
小さい頃は兄と仲良しでした。年子でそっくりで、今思い返しても普通にいい兄弟でした。
しかし僕らは話せなくなってしまった。それは僕にとって初めての孤独でした。これが孤独の根源だと思ってます。本当は仲良くしたいのに、それがなんでかできなくて、どうすることもできなくて、ただ悲しかった。
彼は僕を「コジマさん、コジマさん」と呼び、兄のように慕ってくれてました。
ある時、彼にスネアを貸したことがあって、彼はずっとそれを返さずに持っていて、僕が音楽辞めた後もずっと持ったままで、久しぶりに再開した時に、最近ライブで使ってます、と言いました。
「コジマさんのスネアいい音するんすよ。それになんか、勇気を貰えてる気がします」
彼は照れながらも、とても嬉しそうに笑っていました。僕は貸した覚えしかないのに、まるで自分の物のように扱っている彼を、かわいいな、と思いました。やっぱり弟ですね。兄と喋れない可哀想な男にできた、自分そっくりのかわいい弟です。
彼はタマと仲良しだったんで、僕らは三人で彼女の家に親戚同士のように集まり、ワイワイとやることがありました。タマの両親も彼をとても気に入っていて、息子のように可愛がっているように見えました。あれがずっと続けばよかったのかなあ、なんて、今更そんなことを思ってしまいます。
僕がバンドを辞め、タマが遠くの街に離れ、彼は一人で夢に立ち向かい、必死に戦っていたのかもしれません。
「俺には音楽しかないです。他の楽器もできないんで、ドラムしかないんですよ」
何の疑いも持たずに、彼は真っ直ぐそう言いました。本当に僕そっくりな破滅的な考え方です。
なー兄弟、僕は音楽が無くなってからもなんとか生きているよ。地獄のような日々から生還して、こうしてこれを書いてるよ。タマにはもう会えないけど、彼女はどっかしらで生きてるから、それはなんだか少し嬉しいよ。君にはもう会えないし、どこにもいないから、それはとても悲しいよ。こんな思いをもう、誰にもしてもらいたくないよ。
彼は善でした。誰がなんと言おうと善の人です。自分を責め立てて亡くなってしまったけど、僕は彼を悪だなんて少しも思えません。優しい心の持ち主だったからこそ、こうなってしまったんだと思います。
そんな彼に僕ができるのは、やはり軟弱金魚の時と同じように、存在を残すこと。そして初恋のあの子と同じように、いつまでも忘れないで生きることだと思います。
こんなんでいいかな?
最後の最後にこんなこと書いてしまって、雰囲気もなにも無くなっちゃったよ。作中にちょこちょこ出した方がまだ良かったかな。でも折角書いたし、このまま残すことにするよ。これで忘れることはないから、安心しなよ。一番大事なラストシーンだ。絶対に絶対に、死ぬまで忘れないよ。
この物語が本になったら、彼は喜ぶだろうか。
「すげえコジマさん、まじで尊敬しますよ」
なんて言ってる顔が目に浮かぶ。
ではそろそろ僕は、この物語を完結される為の作業に戻ります。なんとしても完成させて、彼が好きだった軟弱金魚と、あの頃のタマを残し続けます。彼もライブハウスの客席から、僕らを見ていることでしょう。
『万歳』という言葉には『いつまでも生きる』、『人が死ぬ』という意味も含まれています。
同じように死を望み、僕だけが生き残り、彼は死んでしまった。悲しくてやりきれないけれど、これにはきっと何か意味があるんだと思う。だから僕は、一番最後に彼へのメッセージを残したい。
いつだったか君は「音楽を本気でやって、世界に試してみたい」と言った。僕もあの頃、概ね同じことを思っていた。そして誰よりもカッコよくなってやろうと世界にぶつかって、二人ともボロボロになってしまった。僕らは不器用で真っ直ぐで、やっぱりとてもそっくりだ。
ずっと会ってなかったのに、なんでこんなにも悲しいのかな。どこがで生きているような気がする、なんて思わない。それがきっと自ら命を絶つということ。一人死にゆく君の姿を想像すると胸が痛むよ。安らかに眠れるように毎日お祈りするから、早く楽になれるといいね。それとももうなれたかな。
一緒に音を鳴らしてくれてありがとう。
僕の曲でドラムを叩いてくれたのは君しかいない。僕らは兄弟だから、安心して後ろを任せられたよ。本当にどうもありかとう。結局スネアは返ってこないままだったな。ちゃんと返せよ、バカ。
なあ兄弟。
生まれ変わったら、本当の兄弟になろうか。
そうすれば僕らは最強に無敵な二人になれる。
今度は何もかも、全部うまくやってやろう。
道草を楽しんで、幸せを噛み締めて、ゆっくりと生きよう。
愛してる。
寂しいよ、とってもね。
いつまでも君を想って生きると約束するよ。
生まれてきてくれて本当にありがとう。
『こんにちは。
お久しぶりです。
このメールが届いてるのかわかりません。
最近あなたのことが頭をよぎりっぱなしです。
会いに行くにもどこにいるのか詳しくは
しらないので連絡させてもらいました。
先日ホシさんと会いましたよ。
たくさんしゃべりました。
俺は惰性で生きてきました。
ほんとんどのことがなんとなくで格好つけて。
それが露わにされ、残ったものがなかった。
いま音楽を生まれて初めて
本気でやろうと思っています。
いま世界に試してみたいと思ってます。
そんな感じです。
活動とかでいうとザ世界大戦ズ
ってバンドでドラム叩いてます。
もし届いていても返信はしなくて大丈夫です。
俺は引力みたいなものが人にはあって
引きつけあう人ってのがいると思います。
あなたとはまたどっかで会う気がします。
あなたと一緒に音楽をやれたこと、
忘れていません。
音楽は好きですか?
あなたが愛してやまない音楽は
近くに音楽はありますか?
名前をつけるの忘れてました。
チャーです』
いつかまた、必ず会おう。
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