[連載4]アペリチッタの弟子たち~存在論的英文法序説①~言語の非生産性/言語の限界か限界の言語か?/かきことばの「はなしことば化」/英語の五つの文型について/第二文型/言語対貨幣?
毎晩夢にでてくるようになった魔法使いアペリチッタの書いた本、という体裁で語られるこの連載は、ことば、こころ、からだ、よのなか、などに関するエッセーになっています。
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「存在論的英文法序説」
第1部
言語の非生産性
言語は社会的弱者である、といったらこれに異論のある人は多いと思います。暴力的、専制的な文脈で言語がつかわれたり、法律とか規律のように絶対的なものとして我々の前に立ちはだかったり、他人の欲望を煽動し利用してだまそうとしたりするとき、言語はある力をもって現れます。それにもかかわらず、僕は、言語は弱者であるという比喩を使おうと思います。それは、言語は本質的に非生産的なものであるという意味で使っています。つまり、「百の激励の言葉よりも一個のパンを」ということです。
力として現れる言語も、その背景にある権力から分離して考えれば、単に情報の伝達と交換の手段にすぎません。我々はその言葉をおそれるのでなく、その言葉を発する者をおそれるのです。「遺憾に思う」のが大臣であるか僕であるかは重大な違いです。「言語とは、単に空気の振動にすぎない」という洒落も一理あるわけです。
あるいは、現代は情報化社会といいますが、情報化社会というときの「情報」は、ある社会的あるいは経済的な尺度によって測られた情報をいいます。家庭内や隣組の情報をいくら握っていても、役にたつことは限られていますし、逆にどんな極秘情報も、公園を散歩するお年寄りには意味不明の記号にしかすぎません。
言語は、確かに力に仕え利用されます。だが、言語そのものには力はない。
また、けっして言語は現実に先行しません。必ず、現実に一歩遅れるのです。工場や田畑での生産、あるいは科学的発見がおこなわれたあとはじめて、それを交換、伝達する手段として言語は現れます。CMや演説の時にも、まずあるイメージや概念があって、それを表現するのです。この言語の非生産性という弱さは、言語を扱う仕事の現場にいる人は時々実感していることだと思います。
ただし、この言語の非生産性ということは、言語の中立性を意味するものです。これが、権力に従属すると同時に権力に抵抗するものであるという、言語の二重性の原因ですが、このことについては後でもう一度問題にします。
言語の限界か、限界の言語か?
さて、ここでひとつ付け加えたいのは、この言語という、情報の伝達・交換手段の一つである道具は完全ではないということです。
「言語には限界がある。言葉ではいえないことがある」とは、日常よく耳にすることです。それはそのはず、言語は媒介者として間接的に伝達するのであり、我々の思ったようには動いてくれない選挙で選ばれた議員のようなものです。
この言語の不完全さを深刻に受け止め、言語の間接性ではなく、感性や身体の実感を重んじることを実践したり、それを端からみていて「理論化」したりする人もいますが、問題なのは、直接性も間接性と同じくらい疑わしいことです。
また、一度でも外国に行ったことのある人なら、言語の限界という言葉は、言語の可能性としてとらえなおさねばならないことは容易にわかります。
絵画、音楽、身振りでは伝達しきれないものを伝達する能力を、確かに言語は兼ね備えています。外国で、片言の言葉でも通じればどれだけたすかるか・・・。
言語のないことを考えれば、自分の伝えたいことが、言葉をつくして10%伝えられることは、限界でなく可能性としてとらえることは容易です。しかも、この10%は誰にでも達成できるわけではない。
ある文章家は、「死」とか「他人」とか「言語」とか、言葉で表現することが不可能な対象を表現していく限界の言語について語っています。修辞学は人を騙す方法にすぎないということはないようです。普段から意識的に言葉の訓練をすることは大切なことです。
話は少し飛躍しますが、この言葉の扱い方を見失い、逆に言葉に振り回され、言語に閉じこめられたような状態にいるのが精神病者だという指摘もあり、言葉の使い方とは、決してあなどれないもののようです。
かきことばの「はなしことば化」
つぎに、言語による情報の伝達と交換を他の方法と比較するために、かきことばの「はなしことば化」、はなしことばの「音楽化、身振り化」というテーマの話をしようと思います。
大きくいえば、はなしことばの特徴は、交換性に優れ伝達性に劣り、かきことばの特徴は、伝達性に優れ交換性に劣るということになります。交換性がかきことばで劣るということは、ゆっくり読まないと、ときには何回読んでもわからない文章を思い浮かべれば理解できるでしょう。伝達性については、「なにを伝達するか」が問題になるのですが、とりあえず「概念」の伝達という点でかきことばが優れているとだけいっておきます。
はなしことばは、言葉そのものだけではなく、言葉の調子、リズム、高低、強弱や、身振り、表情、タイミングなども大きな役割をもっています。また言葉のもつイメージ(絵画性)もよく利用されます。とはいっても、はなしことばがいくら音楽化、身振り化、絵画化しても、音楽、ダンスや絵画が独自にもつ表現の豊かさにはかないませんが。
例えば、「やあ」という一言が、状況次第ではI love you.よりも強い愛情表現になることもあり得るのです。「あっ」といって指を空にむければそれだけで、のんびりと二人で空を眺めているとき飛行機雲が見えたとか、突然UFOが目の前を通ったとか、いちいち説明する必要はありません。毎朝のきまった「おはようございます」の一言も、お互いの間に、なんらかの次元の連帯もしくは断絶の空気を形成することができます。生産性どころか、事実の伝達性もない状況においてさえ、はなしことばは、人と人の間をつないだり壊したりする作用をもってます。
一方、かきことばは、確かに世論という人間関係の形成・破壊能力はありますし、文字の白黒のコントラストは絵画的効果ももちますが、一般に交換性は、紙や鉛筆、読むという行為に制限されてしまいます。事実の伝達は、はなしことばでもよくできるので、事実の記録、「概念」の伝達がかきことばの特徴となります。
次の章からは、かきことばを中心とする言語の伝達性についてさらに見ていこうと思いますが、最近の傾向として、かきことばの「はなしことば化」、はなしことばの「音楽化、身振り化」が進んでいる印象が僕にはありますが、みなさんはどう感じているでしょう?
英語の五つの文型について
英語の勉強をしていて驚きなのは、世界の多様な現象が、たった五つのパターンの文型で表現されてしまうということです。名詞や動詞・修飾語の多様性があるにせよ、人間の言語表現の方法は五つのパターンしかないということは、既にここに言語表現の限界が記されている気がします。
中学・高校時代に何度となくやらされた英語の構文分析。それを、言語表現の最終基本パターンという目で少し見直してみましょう。
あらかじめ、「There is+名詞」で存在を確認された、いくつもの名詞たちが、時間・空間をまたがって、その白い紙の上で動きまわっている「場」が英文テキストであると想像しましょう。
第一文型 S+V
まだその名詞は世界にひとりぼっちです。しかし、じっとしているのではなく、何かを始めました。
第二文型 S+V+C
この文型は、その名詞の、舞台での役割、自然的あるいは社会的性質を記述するものです。
第三文型 S+V+O
その名詞は、他者あるいはある対象物に出会います。自分以外の損じが出現しました。名詞といっても、それは人とは限りません。
ここでついでに触れておきたいのは、英語によくある「物主語」の合理性です。周囲の状況が自分に影響を与えている、と考えていることは、自分を冷静にみつめる第一歩です。日本語にはこういう発想が乏しい。自分の内省にかたよると、しばしば出口が見えなくなることがあります。もっとも、すべての原因を自分の外にしか求めないというのも問題ですが。
第四文型 S+V+O+O
その名詞とその相手(もしくは対象物)の間に第三のものがはいってきます。二者の関係も、直接的な関係だけでなく、何かを介した間接的な関係へ広がってきます。
第五文型 S+V+(S’(+V’)+X’)
現実の二重化がおこります。現実とは異なる、過去や未来、あるいは欲望、空想、理想、命令など、頭の中の世界が( )内に示されたある文章によって提示されます。
特に、動詞の時制、修飾語句の変化により、ますますこの世界は複雑化していきます。
筆者によってこの世界上に生命をうけた様々な名詞たちが、出会い、愛し、憎み、考え、喜び、怒り・・・・また出会う。それは、様々な時空にまたがる物語です。
ただ彼らの世界は、テキストが終わると物語は終わり、白い紙が残るだけだが、我々の実際の世界は果てしなく続くところが違っています。楽しいことがあっても、事件が何もなくても・・・。
第二文型
ここで、他の表現にはない、特にかきことばによる伝達の特徴である「概念」の伝達について考えてみようと思います。僕自身、まだぼんやりとした形でしか理解してないのですが、この「概念」の伝達の際の鍵を握っているのが第二文型ではないかと考えています。第二文型 S+V+C において、基本は、S=Cです。これを以下、簡便にA=Bといいかえて話をすすめます。
(1)科学的言語におけるA=B
ここでAは主語で、Bは主語の属性を示します。この属性には、「重い」とか「赤い」とか「早い」とかの自然的属性だけでなく、「偉い」とか「金持ち」とか職業などの、社会的属性もあります。このとき注意すべきなのは、Bは、多様なAの中の一側面だけを切り取っていることです。抽象化のはじまりです。灰皿の、色とかにおいとかタバコの灰捨て場という有用性とかは捨象されて、重さについての物理学が展開されます。Aの性格、趣味、仕事、家族構成などは捨象されて、A の年収だけがとりあげられます。
数学における「数」とか、存在論における「存在」というものは、ある意味で、すべての主語がもつ属性を想定すてますから、もっと抽象性が高いといえるでしょう。
科学的言語では、多様な現実を抽象することで、現実に新しい光をあてようとします。この抽象化は、誰がいつみても、繰り返し再現可能なまで鍛えられます。
(2)隠喩的言語におけるA=B
隠喩は、特に文学的表現の中で、現実をいきいきと表現するために使われます。
「たけしは月に向かって吠えた」というとき、本来は相異なる、たけしと狼がイコールで結ばれることで、例えば、たけしの孤独感、悲壮感の中にかいまみられる野生的強さが、狼と重なって感じられます。
このような隠喩的言語におけるA=Bにおいては、現実の日常的な姿が揺らいで、より多様な、現実の新たな側面がうかびあがります。隠蔽されていたものの開示作用を隠喩はもっています。固定されているイメージの打破、という言い方も可能でしょう。
ただ、この隠喩におけるA=Bにおいて、A≠Bの否定性(例では、たけし≠狼)は重要です。ここで、A≠Bの否定性がうまく働かないと、隠喩は、逆に現実を隠蔽してしまうことになりかねません。
例えば、多くの偏見の中には、このA≠Bの否定性が働いてないA=Bという表現がみられます。その結果、たとえば「イラン人は泥棒だ」という言い方は、つかまった泥棒の中にイラン人が混じっていたという事実を隠蔽してしまい、イラン人はみんな泥棒だ、ことになってしまいがちです。
隠喩的言語は、科学的言語のような再現可能性をもつどころか、繰り返し使われることで摩滅していくようです。
一般に、A=Bに代表される、科学的言語や隠喩的言語は、直接に五感でしられる現実性とは異なる次元の現実を開示する作用をもつといえます。その際、科学的言語は上向きの、隠喩的言語は下向きのベクトルで作用している気が僕にはします。
現実っていったい何?
What is real ?