『学ぶことの楽しさ』
◎難解な概念の数々
◎摩訶不思議な体験を経験した頃
◎学ぶ根本は信仰である(阿部國治氏)
【難解な概念の数々】
過日、阿部國治氏が著した「新釈古事記伝」を読破致しました。しばしば、さりげなく引用されている文言に、奥行の深さを感じたものでした。
また、難解な概念も多々存在しました。事実、初めての触れた概念の一つを理解するのに、数年も掛かった事もありました。
更に、その概念の紐解きの過程で、面白い気付きも体験。同じ事柄に対して異なる見解を持つ人物が存在したからです。
因みに、偶然ですがその方が2度程目の前に現れました。何れも、タイミングが合わずお話をする機会を失いましたが、とても不思議な体験でした。
【摩訶不思議な体験を経験した頃】
その摩訶不思議な体験の間接的な切っ掛けになったのが、竹田恒泰氏が出演するコンテンツでした。
確か、学問に対する姿勢に纏わるお話しだったと記憶しています。レファレンスが既に消失しているので残念なのですが、おぼろげな記憶を辿ってみたいと思います。
近視眼的な発想で学んでも、すぐさま役に立つ事は稀である。その様な趣旨だったかと。
まず、皆が注目している可能性の有無を確かめるべきです。競争率が高ければ、おのずと成功する可能性も低い。時間軸の幅を長く持つことが大切だと認識します。
竹田恒泰氏が伝えるように、「目的を持たずに学ぶ事がとても役に立つ」のだと考えます。個人的には、「目的を持たずに」は物事の例えで、俯瞰した視点を持つように促す言葉だと捉えています。
【学ぶ根本は信仰である(阿部國治氏)】
正直、この価値観に対して若干の違和感を覚えました。でも、否定はしません。寧ろ、好奇心の対象でした。
阿部國治氏によると、古代社会では意思決定の手段に「占い」を用いたそうです。「占合(うらへ)」は「うらう(動詞)」の名詞形で、「うら」を行うことを意味します。
「うら」とは、物事の奥にあるもの。即ち、「神のお心」を意味し、神意を知る為に行う方法なのだそうです。また、人は物を知る欲求を持っているそうです。
私も好奇心旺盛な性格ゆえ、日々の暮らしの中で起きる出来事、その背景を知ろうとしてしまいます。古語である「占合(うらへ)」にそのような奥深い意味が込められているのだそうです。
今は、とても素晴らしいと思ってます。概念の紐解きに成功する瞬間は、「物事の原理と一体」になる事。その様に、自分自身の言葉で認識しているからです。
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