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オマエの強さに大いに甘えるはなし

私たちおやこは、最初からふたり家族だった。

産まれるだいぶ前から私たちはふたり家族ということが決まっていた。


ふたりサイズの家を借り、

ふたりで暮らすための準備をして、

そりゃおもしろおかしい壮絶出産をして。

助産院を退院したその日の夜から、もうふたり暮らしだった。

「赤ちゃん / 寝かせ方」を夜中に検索して。まるで「ハムスター / 飼い方」を調べるペット初心者のように、そこに眠る赤子をひとりで育てる孤独な日々が始まった…。

 と思ったんだけど!!

翌日から、この”ふたり家族”には、たくさんの声と、目と、手と、はたまた遠くからのお気持ちと。とにかくたくさんの人々の「ちょっとどうよ?」が寄せられた。いや、寄せられてすぎるくらい、寄せられた。

 なんせ”ふたり家族”は隙だらけ。

父という大きなポジションが空いてるので、普通なら「家族で過ごすだろうし、赤ちゃんもいるだろうから…」と遠慮するところを、

「子育てで人手もいるだろうし、つーか会いたいし、遊びに行くわ!」毎日のように続々と人が訪れ。

なんなら「仕事辞めたし、会いたいし、しばらく泊まっていい?」と長期で友達が滞在するわ。そのまま住もうかな、いや、私も住んでもらった方がなにかと便利だし、の勢いでシェアハウスになりかけたことも。

とにかくふつうの家族だと「旦那さんがいるだろうから…」と遠慮するところを、ポジションガラ空きなんで、やたらめったら人が来る家になってしまっていた。

今思えば、マンションの一階が居酒屋で、子供を連れてひょいと飲みに行けるという好立地も関係してたかもしれない。うん。


 さらに、私はヨガインストラクター。生後間もない赤子を連れてレッスンをしていると、自然と生徒さんたちが「赤ちゃん見ときますよー。」と預かってくれて、レッスンに来てるんだかベビーシッターに来てもらってるんだかわかんないくらいに、生徒さんが赤子を育ててくれた。


 おかげで人見知りってなんですか?と言わんばかりに誰かれ構わず笑顔を振りまく子供に成長していった。


 そんなたくさんの人の手で子育てをしていく中で、彼を世界に連れ出す機会が訪れる。

3歳の夏、NYにいる友人の家に2週間の旅。

目が合えば「ハロー!」とやたら話しかけてくる気さくなニューヨーカーと、街中にあふれるアートや音楽のエネルギーに感化された3歳は、地下鉄のホームで踊り、ドラッグストアの中で歌い、表現は自由であることを覚える。

そして、その翌年はNYに1ヶ月の短期留学。

私の無謀な思いつきで、いきなり現地の幼稚園に通わせてみた。

子供によってはトラウマになるくらい、言語や文化の違いから打ちのめされるらしい…という恐ろしい話も聞いたけど、そんな心配は全く必要なかった。

登園初日から果敢に日本語で挑み、よくわからないけど友達もできて、ピザパーティーをエンジョイ!

「ピーピー(おしっこ)とプープー(うんこ)はわかるよ。

あとね、ヌードゥーもね!」とご満悦。

(どうやらヌードゥーとは、ヌードルのことらしく。友達が麺を食べながらヌードゥー!ヌードゥー!言ってたらしい。)

つ、強い…!!

結局、初日から最終日までずーっとそんな感じで、女の子にお花をあげたり、イースターでパーリーピーポーしたり、異国での幼稚園生活を難なくエンジョイ。

さすがムラ社会で育った男4歳!!

言葉の壁も、人種の壁もなんのそのである。

滞在先のエレベーターで一緒になったスーパーの袋をぶら下げたアメリカ人にも

「それ、ぼくとおなじふくろですね。あそこのスーパーいったの?」と日本語で話しかけ、あまり英語が喋れない私がアタフタする始末。

もはや母を超えて、己の感覚で生きている!

あぁ…この子はこうやって私を超えていくんだな。と目の前で見せつけられた瞬間だったし。

私の英語力…と落ちこむ瞬間でもあったけど。


というか!そもそも、子供というものは全てを超越しているのかもしれない。

いや、してるな。超越しとる。

家族のカタチや、足りないもの。

一般的に、普通に、当たり前とされるもの。

そんなもんは軽々と超えていく。


 そもそも、私が”ふたり家族”になる、と決めた時、賛成する人はひとりもいなかった。

普通にあるべきもの、がない。

それはきっと大変で、悲しくて、不幸で、あまり良くない…。

あまり良くない…私もそう思っていた。

誰も本当のことはわからないのに、そんな気がする。そんな世の中に決まっている。と思っていた。


 でも、そんな思いも、心配も、未来も軽々と超える強さを彼は何度も見せつける。



 コロナで保育園がお休みになっている今。生後4ヶ月から夏休みも冬休みもなく、ブラック企業のサラリーマンのように、行きたくないと泣くことは一度もなく、週6日通い続けた保育園はおやすみになった。

そんなある日、

「おかあさん、しあわせだね。」

とテイクアウトのチャーハンを頬張りながら彼は言った。

世間の不穏な空気を他所に、無期限の自由時間と、目の前の安くてクセになるチャーハンの味をただ堪能する5歳。

「そっかぁ、しあわせなんだ。」

ほら、こうしてまた彼は私の心配を、未来を軽々と超えていく。明日がお休みで、うまいごはんがあるってサイコーだ。

強いってこういうことか。

弱さの対比の強さ、ではなく。

ただ、そこにある強さ。



私はしばらく、そんな彼の強さに甘えてみようと思った。

いや、知らんがな!甘えんなよ。と彼は言うかもしれないけど。





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