留学生活自己学習編「周さんの聞きたいことを尋ねると今日は「日本には、侘びと寂びがあるでしょう。その違いを教えてください。」と言われました。」67番
周さんの聞きたいことを尋ねると今日は「日本には、侘びと寂びがあるでしょう。その違いを教えてください。」と言われました。私は、驚いて声には出さずに心の中で叫んでいました。どう言えば良いのだろうと心中思ったのは数秒だったと思います。なぜなら、何かを言わないといけないのは間違い無い時の空間だったからです。
そして、周さんに自分の心を悟られないように考えていたら、ふっと高校生の頃のことが思い浮かんで来たのです。
私は、周さんに侘びと言うのは、自分はこう思うのだけどと、前置きをして、私が昔いや今から40年位前に高校生だった頃、同級生のお母さんがお茶の先生をしていて、その同級生の家へ遊びに行くと、庭に木々や花が植えてある、中に小さなとても狭い雰囲気の、何の飾り気も無い室疎な重々しい雰囲気を感じさせる一軒の茶室が作ってあり、3畳半位の狭い部屋で5,6人入ると一杯になるその茶室に入るときに、一度庭に外履きで出て50センチ位の楕円形の大きさの石がきちんと並べてあるその上を、3,4歩歩いて体を丸く小さくして縦70センチ位で横45センチ位の長方形の型の所から、その茶室へ1人通ずつ入って行き順番に中で端から座り、もう座っている和服を着た日本独特の美を感じさせるうっとりとする、いつもとは雰囲気の違う人に変身して普段の自分をどこかに置き忘れてきているような女性数人が、古風な柄模様が美しい和服姿で正座してものも言わずにいる中で、静かにこれから始まる千利休の境地に近づけるだろうと言う儀式を、味わえると勘違いしている私達3人の高校生がそこにいるのですと話しました。
そして、私は、周さんに今話した茶室の中で抹茶を昔ながらの古風な儀式にのっとり、1人ずつ飲む時に味会うこのなんともいえない雰囲気やこの茶室などの奥ゆかしい面持ちなど全部併せ持った雰囲気と言うか独特のその場にいて体で感じる感性と言う五感で感じるものを詫びと言い、茶道から来ている言葉だと思いますと説明らしきものを1人自分の世界に滴りながら話していました。
次は、寂についてですが、私は、今から40年以上前になる23歳で就職して、職場の先輩と仕事が終わると近くの先輩の行きつけのスナックに連れて行かれ、当時は8トラと呼ばれる縦15センチ位×横10センチ位の幅3センチ位のカセットになっているプラスチック製の硬いもので、その中に茶色の薄い幅1センチ位のテープが挿入されていて、カセットデッキにそのままテープ側から差し込むと、演歌の伴奏が流れてマイク片手によく「歌手の小林旭の昔の名前で出ています」などいつも演歌ばかり歌っていたものですから、未だに中国大連市遼寧師範大学留学しても中国のカラオケルームで「尾形大作の大連の街から」を歌うくらい演歌が好きなものですから、演歌の話をして寂について話しをしようと決めて私は、周さんに日本の歌で演歌を知っていますか、と尋ねると周さんは解りませんと答えました。
私は、初級2班のクラスのクラスメートと先生と、11月の始めに一緒に行ったカラオケルームで、除先生中国語で「徐老师シューラオシーと言います。」と日本の演歌で中国に於いてカラオケでよく歌われている有名であろうと思われる「千昌夫の北国の春」の歌をデュエットした事を思い出し、周さんに今度は、「北国の春」と言う日本の歌知っていますか聞くと知っていますと言われたので、なんとかほっとした気分になり、話がしやすくなったぞ~と心でひそかに思いました。
そして、私は、寂は日本の「北国の春」と言う演歌の中にあるのだということを周さんに話し出しました。
まず、演歌が四小節からからで出来ている場合においてと言いながら、自分のノートを出し、ボールペンの黒で第一小節がここで、第二小節がここで、第三小節がここで、第四小節がここで、イントロから歌が始まり、第三小節に差し掛かると、必ずここに歌を聴いている側にいる人の心の中に染み入って行く、少しの時間我を忘れさせて統帥させる摩訶不思議なものを、寂と言うではないかと、私は考えていると説明をしました。
すると、周さんは、解りました良くわかりましたと、言われたので私はほっと胸をなでおろしました。
すると周さんが、何時も鞄の中に持っている自分の電子辞書を出して、なにやら寂と引くとそこに「枯れた渋い趣」と書いてあったけど、この枯れたとはどういう意味ですかと聞いてきました。
え~と私も自分の電子辞書を出して同じように引くとそこに寂の説明の中に「枯れた・・・」と書いてあるのです。
私は、咄嗟に定年後のことが頭の中を巡り、周さんに向かってこう切り出していました。
例えば、自分が定年して、それから、生きて行っていずれ死んで行くであろう事を考える時に、少しでも自分なりに枯れた人生を歩んで生きたい、それには、例えどんな小さなことでも自分の回りにいる人に、親切にしてやさしく思いやりを持って接し、大切にする行動の出来る人間になることの積み重ねがとても大事だと思うし、そういうことを出来て継続している人を枯れた人というのだろうと私は思っていると言いました。
そして、また、俗に言う世のため人のために如何に尽くせたか、少しでも自分なりに貢献できたか、今の自分よりも前へ一歩ずつでも進歩して行ったかなどを、実現した人や、余り世間から知られていない所で一生懸命に家族や地域社会の人々に癒しの心を与え続けて、地味だけれども生活感溢れる生活を毎日している人も、枯れた人の仲間であるように思いますと、付け加えて話しました。
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