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奴隷と自由/王位と血筋(アルスラーン戦記)

「アルスラーン戦記」のアニメをNETFLIXで一気に見ました。



いやぁ、面白かった…。

「アルスラーン戦記」は異国からの敵に都を追われた王太子のアルスラーンが仲間と共に王都を奪還する物語です(雑すぎる説明ですいません…)。

原作は小説なのですが、現在漫画が連載中であり、アニメ版も途中まで放映されています。

アニメ版のキャッチコピーが「味方5人、敵30万人!敗戦から始まる英雄譚」なのですが、アルスラーン一行が窮地から国を取り返していく様に胸がすくシーンが何回もあります。

僕が「アルスラーン戦記」で特に心に残ったのが「奴隷と自由」「王位と血筋」のくだりです。

自分の考えの整理も兼ねて、少しnoteに書いてみようと思います。

※下記には若干のネタバレが含まれているのでご注意下さい

●奴隷と自由


アルスラーンが国を取り戻した時に実現したいと掲げる政策が「奴隷解放」です。

ある領地でアルスラーン一行が領主を倒し、奴隷を解放します。

当然アルスラーンは奴隷たちのためになると思ってやったのですが、奴隷たちから思わぬ反発を遭います。

その様子を見て、かつて自分の領地で奴隷を解放したことのある軍師ナルサスがその時の経験を語り出します。

「私が五年前に父のあとを継いでダイラムの領主となり、奴隷を解放したのはご存知でしょう」
「私が解放した奴隷たちが8割がた舞い戻って働いているのを見つけたのです」
「彼らには一人の自由民として生きるだけの目的と技能もなかったのです」
「寛大な主人のもとに奴隷であること…。これほど楽な生き方はありません」
「自分で考える必要もなく、ただ命令に従っていれば家も食事もくれるのですから」


僕はこのくだりを見て、「会社と社員の関係」を思い浮かべてしまいました。

ビジネスパーソンにおける「自由民としての働き方」とは、働くことに自ら目的を見出し、技能を高め、働く場所を自ら選ぶこと。

逆にビジネスパーソンにおける「奴隷としての働き方」は終身雇用・年功序列・退職金で縛られ、自らのキャリアをすべて会社に委ねて、選択や決断を放棄すること。

一見、自由民として働く方が幸せに見えますが、実際は必ずしもそうではないんだろうなとも思いました。

自分で考えず、選ばすに会社に身を委ねて働いた方が楽だという人も多いんでしょうね。

会社も制度で拘束し、情報を遮断し、内輪のつながりを強化することで楽にマネジメントができる。

アルスラーン戦記における領主と奴隷のように、社員を会社に鎖でつないでおくことは双方にとって居心地が良い部分はあるかもしれません。


一方で奴隷の反応を見て落ち込んだアルスラーンに、仲間でありナルサスの領地の元奴隷であるエラムが自分の体験について語りかけます。

「奴隷小屋で暮らしていた頃、たまたま食事時にナルサス様がいらして…」

(エラムの料理がナルサスに賞賛される回想シーン)

「ナルサス様に褒められたのがとても嬉しくて腕を磨きました」
「おかげで自由民になった後もこうして自分のやりたいことで生活ができています」

そのエラムの言葉にアルスラーンはこうつぶやきます。

「技術があれば奴隷から解放されても生きていける…か」

僕は特定の会社に依存して働くことがどれほど楽であったとしても、自らキャリアを選択していくことはとても尊いと感じます。

そもそも会社は国よりも寿命が短く、特に今の環境変化のスピードを考えると依存する対象としてはあまりに心許ないものです。(どんな大企業であったとしても)

経営者として、社員を会社に縛り付けたくないと思いますし、自分の運命を他者に委ねることなく切り拓いていくことを可能な限り支援したいと思います。

具体的には他の会社でも通用するための技能の習得や辞めやすい(縛らない)制度や風土の構築です。

選択肢を放棄した社員が働き続ける組織よりも、選択肢がある中で主体的に自立的にその組織で働くことを選んだ方がパフォーマンスがあがると信じています。

まだまだ考えなければならないことは沢山ありますが、考え続けたいテーマではあります。

●王位と血筋

アルスラーン戦記は王位と血筋をめぐる物語でもあります。

舞台となるパルス王国において、王太子であるアルスラーンが正統な血筋をひいていないかもしれないという疑念が持ち上がるのです。また、アルスラーンの父であり、国王であるアンドラゴラスとアルスラーンの間にも対立が生じます。

その時、パルス王国の騎士たちの間は迷うのです。

果たして誰についていくべきなのか、と。

騎士たちが忠誠を誓っているのはパルス王国であり、正統な血筋である父王です。

それが当たり前と思って生きてきているので当然です。

しかし、そのことに疑問を感じ、アルスラーン王太子についていくものたちが出てくるのです。

(ギーヴ)「宮位を持つと不自由でしょうがないな。主君を選ぶ権利すら与えられぬ」
(ファランギース)「まこと宮廷人とは哀れなものじゃ。形式的な忠誠心や義理のために人間本来の情を捨てねばならぬとはな」
(ギーヴ)「俺はアルスラーン殿下のために何かして差し上げたいとは思うがパルス王家に忠誠を誓う気なんてない。王家が俺に一体何をしてくれたというのか?」
(ナルサス)「たとえパルス王家の血をひかぬものであっても善政を行って民の支持を受ければ立派な国王だ!それ以外に何の資格が必要だと仰るのか!?」
(ダリューン)「殿下のご正体はこのダリューンが存じております。殿下はこのダリューンにとって大切なご主君でいらっしゃいます」

このアルスラーン一行を見て、僕が感じていた、考えていたのは「果たして経営者の正統性は何によってもたらされるのか?」ということです。

政治の世界におけるリーダーは国民の投票、もしくは国民の投票によって選ばれた代理人によって選ばれます。

企業においては社員がリーダーである経営者を選ぶことができません。社員ではなく株主であれば誰がリーダーであるかに票を投じることはできますが、それでも経営者が株式の大部分を保有しているオーナー企業であれば、株主の意向すら影響されません。

会社を創業するにあたり、僕自身もこんなことを考えていました。

「株式の比率によって、リーダーたらんとする経営者にはなりたくないな」ということです。

勿論、創業者が一定の比率の株式を持つことによって強いリーダーシップを発揮できるといった側面はあります。

ただ、誰からも選ばれたわけではないのに、単に最初に資本金を出しただけの理由でリーダーたらんとする経営者にはなりたくないなと思いました。

ガバナンスの効いた環境の中で僕自身が選ばれる、見極められた上でリーダーになりたい。

創業当初から社外役員を社内役員より多く配置して、少し特殊な契約をまいて僕を解任できるようなガバナンスを取りました。

まだまだ不十分だと思いますので、今後も「『リーダーを選ぶ』というメカニズムを組織の中にどう埋め込むか」ということについては考え続けたいと思います。

以上、アルスラーン戦記を読んで感じたことでした。

アルスラーン戦記はとにかく登場人物たちが魅力的な群像劇です。チームで何かを成し遂げるって本当に素晴らしいなと思わされます。オススメです。


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