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ヨーロッパ留学

​​1989年の秋学期(9〜12月)にベルギーのブラッセルへ一学期間の留学制度(Semester Abroad)に参加しました。これはニュージャージーの大学で提供されていた制度なのですが、外部からの参加も可能でした。

これら留学制度は各提供学部がプログラムを運営しています。同大学でも他のプログラムには政治学部が主催していたワシントンDCへの国内留学や、同じく政治学部主催のロンドン留学などがありました。現在では短長期プログラムを合わせ、NYC再発掘、イタリアタスカニーの食文化とサステイナビリティー、南アフリカの差別社会と紛争心理と復興、オーストラリアの環境心理学など幅広いプログラムが提供されているようです。

僕が参加した1989年時も合計で30数名の生徒が参加し、その半数弱が他校からの参加でした。これら留学プログラムでは単位が与えられ、ベルギーでもEUの政治、ヨーロッパの歴史、EU経済、EU訪問やスピーカーなどを招いたクラスが提供されていました。European Union(欧州連合)の発足が1993年でしたので、我々が参加した時はまだ色々な事が準備中の最中でした。

準備:

これはあくまで個人の選択なのですが、ブラッセルはフランス語圏なので、出発前にフランス語の会話クラスを取りました。2クラス取りましたが、会話までは及ばずとも必要単語の学習や簡単な文章は習得出来、現地入り後も日々の道の質問や英語が話せなかったホストファミリーとの最低限の会話は可能になりました。
 

ベルギー:

日々の授業はベルギーの協賛大学で行われていました。短期留学という事で、有名な教授軍が名前を連なり教団に立ってくれました。授業も参加はしていたものの、個人的には金曜日を欠席しユーレイルパスを片手にバックパックを背負って旅をしていました。パリやアムステルダムへの日帰り旅行からドイツへの2〜3日旅行など、色々な方面へ繰り出しましたが、何処に行っても同じような安旅行学生バックパッカーがいて、1人旅行でもすぐ話し相手は見つかり、多くの旅先情報を交換したり、一緒に行動したりしました。
 
面白かった旅行は、別の大学からの参加生といったミュンヘンのオクトーバーフェストです。当初はユースホステルに泊まる予定でしたが、結局ビール代を少しでも多く確保する為に、夜は駅構内で野宿しました。同じ事を考えていた学生は多く、最終電車後の駅構内は学生で溢れていました。寝場所を確保するのも一苦労で、結局は相方が証明写真ブースの中で寝て、僕は床に寝ました。朝も始発電車出発前に鉄道公安が棍棒で壁打ちながら我々酔っ払い野宿学生を追い払っていました。やはり向こうも手慣れているようで、2回目の回覧では一人一人を強制的に起こし、追い払っていました。
 
オクトーバーフェストでは各ビール会社が巨大テントを用意し、その中でテーブルが何列にも並んでいました。その中ではビールしか提供されておらず、食べ物はテントの外に行って、ソーセージ、プレッツェル、鳥の丸焼きなどを買うシステムでした。二日間滞在していた我々は、複数のテナントに赴き、参加者と体験を共感してました(笑)中でも、軍事武器密輸組織を牛耳る中近東からの家族を片側に、そして逆側には米ホワイトハウスの職員2人と飲んだ事は今でも良い思い出です。中近東の家族とは英語も片言で話していましたが、息子が誕生日だったということで、組織ボスの父親から許可を取り付け、未成年の少年にビールを飲ませて仲良くなってました。最後には未成年はフラフラで父親はカンカンでしたが呆れて、最後にはお礼を言ってくれて帰って行きました。同時にホワイトハウスの職員はわざと同じ会話には参加せず、あたかも家族の存在を無視するような振る舞いは今でも覚えています。
 
他にもベルリンの壁崩壊直後に現地入りし、東と西ドイツの人達それぞれに話を聞いたり、土地の雰囲気の差を実感しました。また、ソビエト連邦崩壊直前にも現地入りして、ロシアの人たちの考えや思いを学んできました。驚いたのは社会主義国なのに、多くの人が英語を話せたり、決してソビエトに忠誠的ではなかった事です。その後もベルギーへの帰途は電車で帰った為、地域によっての違った国境サービスの対応にもびっくりしました。
 
今回のブログは僕の体験話をするだけではなく、米大学での幅広い教育スタイルや可能性についてもご理解頂ければと思いました。
 
KM Pacific Investments Inc.代表
枡田 耕治


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