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坂本龍一のメディア・パフォーマンス その4


坂本龍一のメディア・パフォーマンス


坂本龍一さんは1983年6月20日にKIC思索社からカセットブック「Avec Piano」をリリースしており、奥付に編集協力として「本本堂」のクレジットがあることから、すでにこのころまでに坂本さんは、自身の出版メディアを立ち上げるという計画をスタートさせていたものと考えられます。

坂本さんは書籍「坂本龍一のメディア・パフォーマンス」に収録されたインタビューおいて、本本堂が設立されたきっかけを以下のように説明しておられます。

まだインターネットもないころですが、本というデバイスは閲覧性も優れているし、後ろから読んでも前から読んでもいいし、飛ばして読んでもいい。あるページを読んでいるときに、パッと目次を見ることだってできる。とてもアクセシビリティが高いメディウムなわけです。

本というメディウムのいいところをあのころにいろいろと感じたんですよね。だから本で遊んでやろうと思って本本堂を始めたんじゃないかな。

坂本龍一のメディア・パフォーマンス


浅田彰さんの書籍「構造と力」が勁草書房から出版されたのは、奥付によると1983年9月10日です。坂本龍一さんは浅田さんと初めて会ったときのことについて、以下のように回想されていました。

初めてお会いしたのは「構造と力」が出版された直後で、「ああ、これが噂の浅田少年か!」と思いました。

書籍「坂本龍一のメディア・パフォーマンス」
構造と力


こちらの発言から、おそらく1983年の秋ごろに坂本さんは浅田さんと初めてお会いになっていたものと思われます。そして、浅田さんの2冊目となる著書「逃走論」が筑摩書房から出版されたのは、奥付によると1984年3月10日でした。

「イコール」誌の1984年6月号には浅田さんの「はじめにメディアありき」という文章が掲載されており、書店に雑誌が並んだのは5月10日であったため、こちらが執筆されたのは1984年3月ごろのことと考えられます。

イコール 1984年6月号

浅田さんは「はじめにメディアありき」において、以下のように述べておられます。

重要なのは、個人かシステムかという旧来の二者択一をのりこえて、メディアをそれら二層の中間にある分散的・多彩的・可変的なネットワークとしてとらえ、活用していくことだ。

鈍重な主体的表現をも紋切型のマス・イメージをもこえて、その場その場で柔軟な多様性を示しうるようなメディア・スペースを組織していくこと。それこそがいま可能な唯一の戦略ではないだろうか。

浅田彰「はじめにメディアありき」


すなわち、1984年初頭の浅田さんは「柔軟な多様性を示しうるメディア・スペース」の組織化を構想していたことが分かります。そして、上記したように坂本さんも本という「アクセシビリティが高いメディウム」に着目していたわけです。

1985年にナムジュン・パイクは「浅田と坂本の交流は、サルトルとボーボワールみたいなものだ」と記していました。こうして共通した関心を高めていた坂本さんと浅田さんは、1984年から1985年にかけて、お二人の必然的な出会いに由来した「メディア・パフォーマンス」を実践されていきます。

この2年ほどの期間における坂本さんと浅田さんによる「メディア・パフォーマンス」は、松井茂さんが書籍「坂本龍一のメディア・パフォーマンス」において詳述しておられるように、本本堂という出版社を主要な「メディア・スペース」のひとつとして展開されていくこととなりました。

レコード「音楽図鑑」

1984年4月2日には昨年から制作が中断したままになっていたアルバム、「音楽図鑑」のレコーディングが音響ハウスの第2スタジオにて再開されています。そして、1984年5月9日には浅田さんが「音楽図鑑」のレコーディング現場に遊びに来ており、この日の夜には高橋悠治さんと坂本さんの対談を収めた本本堂からの書籍「長電話」(奥付では1984年5月15日に発行)の打ち上げが、以下のお店で行われていました。


こちらの打ち上げには高橋さん/坂本さん/秋山晃男さん/糸井重里さん/冬樹社と本本堂のスタッフのほかに、浅田さんも参加されています。この日までの坂本さんの日記において、出版に関する事項はおもに「長電話」についてしか触れられておらず、ひょっとするとこの打ち上げの席で、本本堂という「柔軟な多様性を示しうるメディア・スペース」を舞台とする、今後の「メディア・パフォーマンス」の計画などが話題にのぼっていたのかもしれません。


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