![ナイトクルージングL-672x372](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/11388263/rectangle_large_type_2_3979324560bc582397665c6fa1ca1aae.jpeg?width=1200)
夜を泳いで
夜。太陽が水平線の向こう側に沈み、光が届かなくなった世界のこと。都会ではネオンの猥雑な光が街を照らす。郊外では街灯が帰り道を導く。太陽の光を反射した月が、世界に微かな光を降らせる。夜は完全な闇ではない。夜を暗喩をして使うことを人は好む。暗い時間にこそ光は映える。闇の中の光に人は何かを感じるのだ。
生まれつきの全盲で、“見る”ということができない障碍を持つ人がいる。人間は生きる上で知覚するものの83%は視覚から得ている。正直、僕はそんな障碍を持った人の世界は想像すら出来ない。完全な闇なのだろうか。そんな人が映画を作る過程を追った、ドキュメンタリー、『ナイトクルージング』を観た。
佐々木監督は、全盲の障碍を持った加藤さんを“友人”と語る。佐々木監督はこれまで、マイノリティや障碍者の方を題材にした映画を多数撮っている。僕も観たことがあるが、監督はいわゆるお涙頂戴的な、ある意味下品な映画は撮ってない。障碍者の方だってすごいんだぜ!のような偽善でもない。ただ、面白い人に寄り添い、カメラに収める。
僕が観たのは、監督が性的不能者、という設定で性的に充実した障碍者のおじさまを追ったドキュメンタリー。というか、モキュメンタリー的でもあり、トリッキーで実験的、でも面白い作品。(ちなみにその映画を観た日、監督と飲みにいき、声が枯れるほど好きな映画の話をするという最高の時間を過ごした。監督は僕などよりも博学で、僕は完全にうちのめされたのだ。当たり前だが)
自分の中の“常識”や“善悪”が揺らぐ感覚。いい映画の鑑賞後は、そういう感覚になる。映画館を出たあとに見える光景が、同じ街なのにいつもと少し違って見える。佐々木監督は、そういった感覚を与える映画を撮る人。そんな佐々木監督が、満を持して勝負に出た(と僕は思っている)映画が今回の『ナイトクルージング』。僕はめちゃくちゃ期待して観に行った。
映画の冒頭で、目の見えない人たちの好きな映画を聞く描写がある。後天的に全盲になってしまった人は見えている時代に映画を楽しんでいた。先天性全盲の加藤さんも、音と想像で映画を楽しんでいると語る。加藤さんは、アクション映画やジャッキー・チェンが好きだとか。
主演の加藤さんが制作する映画『ゴースト・ヴィジョン』は、脚本も加藤さんが執筆。おそらく自己を投影しているだろう、目の見えない主人公が仲間と共に謎の存在“ゴースト”を追う話。加藤さんのイメージするヴィジョンを、業界の名だたる専門家達が、最新の技術を使い、その雲をつかむようなイメージを、それぞれと綿密なコミュニケーションをとることによって映像化していく。
『ゴースト・ヴィジョン』の主人公は、見えないが視覚以外の感覚が見えることよりも鋭敏だ。見えない、というハンデは仲間に補ってもらい、仲間は主人公の鋭敏な感覚を頼りに、“ゴースト”を追う。お互いにコミュニケーションをとり、足りない部分は補い合うという関係性が生まれる。その映画の関係は現実の『ゴースト・ヴィジョン』制作の加藤さんそのものだ。そういったメタ構造が、この映画の面白いところであり、感動するポイントなのだろう。
足りないものは補い合い、コミュニケーションをとって目標に進む、という行為は、ものづくりをする人にとっては当たり前に行われること。いや、会社や学校、人があつまるコミュニティにおいてそれは日常的に行われること。この映画はマイノリティである加藤さんが映画を作るという、ある種の矛盾を孕んですらいる特殊な状況を、人間が生きる社会に当てはまるという広さにまで拡張し、普遍的な内容に落とし込んでいるという非常に巧みな構造なのだ。それがこの映画の面白さであり、人気や評価に繋がっていることは間違いない。
しかし、しかしだ。出来上がった『ゴースト・ヴィジョン』がどうなのか、という問いがある。ある種のアウトサイダー・アートを作ろうとしている加藤さんのイメージを、様々な人が解釈し、作品としてまとめていく。この“まとめる”という作業、人の手が加わればその数だけ一般化されるものだ。個性が薄まり、少し悪い言い方をすると、カドがなくなっていく。制作者の色は薄まる。もちろんそれはそれの良さもあるし、作品の善し悪しへの影響は時と場合による。アンダーグラウンドではない、大衆芸術の世界では、人の手とお金をかけて生まれたマスターピースもある。
僕が思い出したのは、ヘンリー・ダーガーだ。彼はコミュニケーションを遮断し、ひたすら孤独の中で『非現実の王国で』を描きあげた。結果、他の類を観ない独特な、それでいて無垢な美しさのある作品を創作した。ヘンリー・ダーガーが誰かとコミュニケーションと取り、発表することを目標に『非現実の王国で』を描いたら同じものは出来なかっただろう。結果論だけど、亡くなる直前まで作品を誰にも見せない事で、アウトサイダー・アートの金字塔を創作したのだ。
加藤さんは皮肉なことにも他人の手を借りなければ作品の創作はできなかった。そして、出来上がった自分の作品を確認することは出来ない。自分たちが見ているものを、加藤さんに伝える時、すなわち映画の出来について、人はどう答えるだろう。いや、僕たちだって、他人と同じものを見ても同じように見えているとは限らない。結局、全盲の加藤さんだろうと誰だろうと、同じこと。自分の見ているものが他人にも同じように映るなんて事は、ない。僕らは、自分の見ている世界や感情を、どう他人に伝える?この映画はそんな普遍的な問いかけを僕たちに投げかける。答えでは無く、問いを描いた映画なのだと思う。そして、僕はそんな映画が大好きなのだ。
ただ、僕は思う。誰かとコミュニケーションと取り、何かに取り組むことは、刺激的で楽しいことだ。同じ目標に向かって、悩みながら、笑いながら、時にはぶつかって取り組むことは、他の何にも代えがたい経験だ。これも普遍的なことだと思うのだ。佐々木監督は、僕の「どうしてタイトルをナイトクルージングにしたんですか?」という質問に、「ナイトはダークではないんです。闇を照らす様々な光の中で、皆で夜の海をクルーズするイメージがぴったりだと思ったんです」と答えた。その答えを聞いたときに、僕はちょっと涙が出そうになった。この映画が見れて、本当に良かった。
ちなみに関係ないけど、僕が映画で登場する夜の海で一番好きなのは、『フェリーニのアマルコルド』に登場する夜の海です。なんてね。