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『病いの語り』を読んで

『病いの語り』

慢性の病いをめぐる臨床人類学

アーサー・クラインマン著 (訳:江口重幸ら)


慢性疾患や難病をかかえる患者さんに対して、考えておくべき重要な考え方を、実例をまじえて説いた本。


僕なりの言葉でいいかえると、

①慢性の病気をかかえる患者をケアするということは、ただ単に「〇〇病」の治療をすることではなく、「その病いが本人や家族の人生にどのような影響をあたえたか」「その文化や社会の中で病いがどのような意味を持った(と本人が感じている)のか」について本人の語りに耳をかたむけ、本人の「人生」というストーリーの中で病いがどのような意味をもつかを考えることだ。

②「病い」というものは、生物学的な「疾患」という部分だけでなく、病気が家族や社会、文化へ複雑にからみ合うことで、患者本人の人生という「文脈」にどのような影響を及ぼしたのかまでを含めたものだ。

③しかし、現代の医学では、患者の人生において(慢性の)病いがどのような影響を及ぼしているかは「置き去り」にされ、医学生物学的な病気のメカニズムを治療することが中心になっている。

④つまり、同じ病気で苦しむ患者の人生のストーリーは、「病い」の中から疎外されており、同じ病気に苦しむたくさんの人たちは、現代医療の中では「〇〇病の人」という顔のない病気として扱われる。

⑤生物学的に「病気」を治療することも大事であるが、本人の語りに耳を傾けることで、本人の病いへの理解も進むし、治療者側の士気も上がるはずだ。

ということになろうか。


マルクス「経済学・哲学草稿」の「労働と疎外」になぞらえると、「生物学的医学と疎外」とでも言えようか。

たしかに、限られた時間で多くの患者を診なければならない医師は、「どれだけつらかったか」を時間をかけて話そうとする患者の話を、しばしば遮ります。そして、治療薬を選択するための「最小限の情報」をガイドラインに沿って少しでも早く聞き取ろうとします。

患者は、医師からの話が「二重拘束」(ざっくりいうと「どないやねん」という状況)になっている状況に苦しみます。リハビリや透析などでは「自分のケアに責任を持ちなさい」「がんばれ」と繰り返し言われ、いざ病状がわるくなると今度は「君がやりすぎたからだ」と責めたてられるように感じることがあるようです。(もちろん全員ではないですが)


たしかに、医師は患者さんの人生何十年という「つもる話」を全部聞くことができないが、病いがその人の人生や家族に与えた影響を考えることを放棄すれば、真のケアはできないというのは腑に落ちました。

本書の15章には、「病いが患者さんの人生のストーリーの中でどのような役割をしているのか」を、時間のない医師が探っていくためのヒントが書いてありました。

つまり、最初のステップとして、

「どこが悪いと思われますか?その原因はなんでしょうか?私にどんなことをしてほしいとお望みですか?」

次に

「この病いは(あるいは治療は)あなたの生活におもにどんな仕方で影響を与えてきましたか?この病で(あるいは治療で)一番怖いと思うのはどんなことですか?」

と医師がたずね、耳を傾けることが大事です。

(細かいステップは本をご参照ください)

これにより、患者はどのように病いのことを見ているのか、自分の言葉で説明しようとすることで、病いの意味を考え、病いに向き合っていくことができるようになると思われます。


同じ病院で働いておられた江口先生の熱い思いまで伝わってくる良書でした。

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