初期設定の愛 18.回転寿司
何かきっかけが欲しかったのだと思う。
駅前に小さな回転すし店が開店した。
店先の求人募集に応募し、バイトをはじめた、平日夜7時から11時くらいまで、毎週2-3回くらいで1日4時間。
閉店後の清掃を毎日60分きっちり、フロアの椅子あげ、吐き掃除からのモップ掛け、テーブルソファのぞうきんがけが終わるとキッチンの床のブラシ掛け。1回目が洗剤で、2回目は漂白剤、すすぎもきっちりやる。
閉店後の清掃がきつかったが、売れ残りの持ち帰り寿司を毎回いただけた。近所に住む叔母が、いつからかその寿司目当てにしょっちゅう、ウチにくるようになった。その叔母のうれしそうな笑顔、今でも思い出せる。
あっ、この叔母は、かずちゃん(注1)のお母さんだ。
結局このバイトは2か月で辞めることになる。
なんだかいろんなことが、グチャグチャないまぜになって、ゴチャゴチャゃしてきて、どうにもこうにも整理できなくなったのだ。
ゴチャゴチャの原因は三つある。
まずは、Y子さんだ。
この店で出会ったバイト仲間だ。私立高校に通う、1つ年下の女子Y子さん、小柄で大きな黒目のアイドル系女子、かわいい。結構タイプだ。私に気がありそうだ、それくらいわかる。
でも、もちろん確信はない。
このY子に告白するために、バイトを止めようと思った。
振られるリスクを考慮したためだ。
振られた場合には、Y子さんとはもう一緒にバイトはできない。メンタルが弱いので。これが一つ目の理由。
そして、二つ目。
私が、高校生バイトの分際で、店にあった客に出す用の日本酒を、なめなめしながら、皿洗いしていたのが、店のオーナーにばれてたのだ。
このオーナーは当時すでにかなりの年配者、いや、おじいちゃんだ。
少しボケてるらしい。あっ、これはY子さんからの情報だ。
規則規律に厳しいタイプのようだ。
普段は店の奥の休憩室にいて、主に、従業員の仕事ぶりのチェックと売上金の回収が主な仕事のようだった。
まさか、ばれていたとは。
こんな仕事、酔わずにやってられない。そう思っておりました m(__)m。
申し訳ございません。
窃盗、未成年飲酒、どちらもすでに時効といういことでいいでしょうか。
まあ、引責辞任だ。
ちなみに、この件で店長が店の奥で、オーナーにぐちぐち言われていたのが聞こえた。店長は私には何も言わなかった。このことで私を追い込みたくなかったんだと思う。
三つ目。
店長がすごくピュアでいい人だった。だから、バイトを止めようと思った。
アンチテーゼ(注2)のようだが、正直な気持ちだ。
バイトにも慣れたころのある日
「ちょっと、【中:なか】にはいって来い。」【中】にいる店長から声がかかる。
【中】とは、長円形の寿司がぐるぐる回るレーンの内側のことだ。
すし職人がこのスペースで寿司を握る。いわば聖地だ。
掃除の時すら、この【中】にはバイトは入らない。掃除も【中】の職人がするのだ。
入店1か月、始めて入る【中】。ちょっと窮屈だ。
「ちょっと、見てろ。」そういって、マグロの握り寿司を二貫、数秒のはやさで握り、丸い白皿へさっと乗せる。これ見本だ、そういってどこかへ消えていった。
【中】は狭く、定員は2名、何人も同時に【中】で動けないのだ。
その【中】 には、店長の後輩の職人、赤ら顔の副店長もいた。
しばし茫然と、つったったままの僕を見かねて、この副店長が助け船をだしてくれた。
「早くて見えなかったろ?」といって、その副店長が、ゆっくり丁寧にスローで再度、実演してくれた。
「店長は1貫3秒だ。いや、そんなかからんかもな。」
「俺なんか、まだまだ店長にはかなわない。」自嘲気味にはなす。
急に小声になり、「異例のスピードだな。いやなら断れ。」真顔でそう言われた。
入店1か月の週3高校生バイトは【中】には、通常は入れない。
にもかかわらず、店長がお前を【中】に入れた。
お前を見込んでのことだ。
この世界、”覚悟” が必要だ、それがなければ断れ。
どうもそんな意味のようだ。
自分にはそんな覚悟などない。
時給450円、言われたことをやる。それだけ。
副店長にネタを渡され、ひたすら握りの練習をした。
同じネタで、繰り返し、同じ動作を繰り返した。
ネタの名前は知らない。ややピンク色がかる白身だったと思う。
”びんちょうまぐろ”かな? ようわからんが。
20分後、副店長と店長が交代、副店長の休憩時間だ。
目の前の品のよい中年マダムが、さっきから私の方を、ちらちら気にしてる。
私の衣装は、フロア店員用の白青のストライプシャツと使い捨ての紙の帽子だ。職人は白衣だ。
そうですよね、まるで中卒で田舎からでてきた農家の三男坊。
一人前のすし職人を目指す修行中の小僧さん、修業期間2-3年がたち、ようやく、握りの練習初日、はい、そう見えますね。
このマダム、さっきから一連の様子を見ていたようだ。
「小僧さん、それちょうだい。」 微笑みならが、そういうマダム。
確かにそう聞こえた。
すし職人の青田買いか、はたまた自分の息子に重ねたのか、応援のつもりだろうか。
すかさず、真横の店長を見た。店長は知らんぷりを決め込んでいる。
聞こえたはずだ。
店長。どうするの?(心の声)。
その時、「だせ、だすんだコージ。」 店長のめくばせ。
店長命令は絶対だ。
白皿、二貫で100円、消費税はまだない時代。
始めて握った握り寿司、この時点で10分以上握り続けているネタとシャリ。もうねっとりしてる。
ネタとシャリを新しいものに差し替えるなどのアイデアは浮かばなかった。
そんな気は利かない。すぐに2貫目を握る。上品マダムの視線を感じる。
心臓バクバクだ。いいのだろうか、何か法律には抵触しないだろうか。衛生なんとか法とか。
腹痛おこさなければいいが、いろいろな考えを巡らせた。
まあよい、なんとかなるだろう。
大丈夫、大丈夫、そう言い聞かす。
プロだプロなんだ、お金をいただくんだ。必死に自己洗脳した。
冷静を装い、さっと二貫の握り寿司らしきものを乗せた皿をマダムの前へ差しだした。白い皿だ。
「ちょっと形は変だけど、おいしいわ。」笑顔のマダム。
”はげまし”という名の社交辞令だ、普通の客は、白皿食べて、わざわざ、”おいしいわ”とはいわない。
ありがとうございます。<m(__)m>
たしかに、形が変なのは、気づいていた。なかなか均整のとれたいい形にはならない。どうしても、太ったぼこぼこした芋虫のお腹のような形になる。
でも、もう安心だ。もうマダムの腹の中だ、証拠隠滅だ。
握りの姿形などもうないのだ。
マダムからの追加の注文はなかった。
その時、あー、この仕事は、私がやってはいけない。そう思ったのだ。
副店長の言う通り、覚悟が必要だ。
【なか】に入ってみて、気が付いたことがある。
客は、職人の細かな指のうごき、一つ一つのすべての動作、息づかい、姿勢、一挙手一投足、仕事への向き合い方、そのこころもち、すべて見ているのだ。常に職人としての価値を値踏みされている。
自分は小僧さん、あれはマダムのご祝儀だったのだ、粋なお客さんなのだ。その証拠に、”おいしい”といったのに、追加の注文はなかった。
不合格だったのだ。
(この気が付いたこと、さも当時そう悟ったように書いたが、これは55歳の今、気がついたことである。m(__)m)
でも、店長の思いはうれしかった。
こんな僕に店長は期待してくれていたのだ、すごくうれしかった。
店長にバイトを止めると言い出すのに、この日からまるまる一か月かかった。
思えば、いままで何をやっても ダメ ダメ だらけの人生だ。
こんな感じで、逃げてきた。そんなことを感じる。
(あー、これは今現在の思いです。念のため。)
注1: 【10.逃亡】の回で登場した教育実習生の従兄。
注2: ある理論や主張を否定するために提出される反対の理論や主張のこと。