初期設定の愛 33.人生の筋書
はじまりは、ある夢。明晰夢だ。
これは、一昨年の11月後半ごろのことだ。
5-6m離れたあたりに立つ女神、佐伯さんだ。
顔の表情は、はっきりとは見えないが、清潔感のある美女だ。
必死そうにも見える。
深みのある目、その目からのエネルギ―を確かに感じる。
これは知っている。あのエネルギーだ。
肩ぐらいまで伸びたストレートヘア。20歳くらいに感じた。
かなりリアルだ。
ちなみに3次元では20歳の彼女に会ってはいない。
直立して、やや上体を前へ傾けている。必死に何かを伝えようとしている。私へだ。
100%意識を私に向けている。この瞬間、彼女と私以外にはなにも存在しない、実在はこの2つ。
体感では10秒くらいだった。
・・・・・
目が覚めた。まだ夜中だろう。
この年の3月に女神との再会を決心した。はや9か月。その思いに変更はない。
ただし、何かが抵抗している。なんだろう。”はっと我に返る瞬間” これだ。
風呂上りに鏡を見る。床屋さんでの2か月に1回の白髪染。駅の階段を駆け足で上り、息切れする。地元で、老け切った同級生を見かける。
家族との団らん。 これらすべてが我に返る瞬間だ。
とにかく、むちゃくちゃなことをしようとしている。38年だ。そもそもあちらは覚えているのだろうか、
まあ、五分五分くらいだろう。仮に覚えていたとしよう、だから何なのだ。彼女にとって、どんな意味があるのか。
だれにも相談できない。
仮に友人に相談したところで、まともに取り合ってはもらえないだろう。
相談したとて、何かが解決するわけでもない。
酒の肴になるだけだ。
思考は堂々めぐりを繰り返す。来る日も来る日も。
親しい地元の友人の一人に、数年前に心療内科へひと月ほど入院したのがいる。中学からの友人だ。
50代ともなれば、そりゃ、心も壊す。この友人には同情する。
統合失調症との診断のようだ。このころ、少し精神の病について勉強してみた。この友人のために何かできないかと考えてのことだ。
この明晰夢の後、数日ほど経過した頃だろうか、
念のため、可能性の排除という意味で、この線での検証を試みようと考えた。
自分が統合失調症あるいは、新種の精神疾患ではないかと仮説をたてたのだ。
精神疾患を患った地元の異性の同級生に38年ぶりに尋ねられても、お相手は迷惑がるだけだ。そんな配慮もある。
まあ、直観的には、そうではない。そんなわけないのだが、とにかく何かしないと落ち着かない。
このころ、原因不明の耳鳴り、左耳周辺から脳内に放射線状に放たれる、何か高周波的な音と振動が響いている。何か、フワフワとした感覚、頭はぼっーとした状態で、心ここにあらず。
地に足がついていない状態が続いていた。グラウンディングできてない。
(この状態は一進一退の状態で、この頃からちょうど、1年ほど続き、今は徐々に落ち着いている。現時点での理解は、これが覚醒症状のはじまりの合図であったと理解している。この当時は、何かおかしなことが始まった。得たいのしれないことがはじまったような感覚だった。ただし、なぜか恐怖心はなく、わくわく感、多幸感、全知全能感。なんでもできる、すべては完璧だ。不安もない、不満もない状態。
まー、何かが動き始めた、そう感じていた。)
このことを書くかどうか、少し迷ったが、
誤解をおそれず言えば、何かに支配されいる、コントロールされている。
人生通じて、うっすらと感じていたことが、このころから、リアルに実感として感じられた。
自分は何も成し遂げていない。電車の車窓から、ボケッと窓の外を眺めているだけ。
そんな人生だ。
そのことに気づいたのは、30代ごろからだろうか。いや、物心ついてからかもしれない。今は100%確信している。
何もしていない。ただただ、川の流れにぷかぷかと流される。風まかせだ。それが自分の人生。
筋書、プロットがある、そのとおり粛々とすすんでいく。
自己、いわゆる顕在意識に主権はない。何かにコントロールされている、感情も行動も。発する言葉さえも。
操り人形。
安全地帯にいながら、顕在意識(乗客)は自由にその感想を述べ。自由に感じる。常識に縛られ、疑い、おじけづき、リスクを避け、喜び、小さな幸せを感じ、不幸をかみしめる。そして、後悔する。
リスクなどないのだ。なんでもできる。何をしてもいい。
矛盾するような話ではあるが・・・。
この宇宙の法則では、矛盾すら、おおらかに受け入れられる。すべては宇宙に溶け込んでいるのだ。気にしなくていい。好きなようにすればいいのだ。
そんなアイデアが雪崩のように押し寄せる。
自分の人生で一度でも何か、本当の意味でチャレンジをしたことがあるのか?
やり切ったことがあるのか?
ノーリスクだ。やってみろ!