蕗と苺(ふきといちご)
八王子の下恩方にある武田信玄の娘・松姫ゆかりのお寺・心源院から、八王子城址を抜けてJR高尾駅に至る山道を「心源院歴史古道」という。
小学四年生だった私は、祖父と二人でその山道を歩いていた。春のお彼岸の時期だった。
いつもならば、西東京バスで陣馬街道を八王子駅まで戻るのだが、その日はなぜか、祖父と二人で高尾駅までの山道を歩いていた。家族全員で墓参りに来たはずなのに、なぜ祖父と二人で歩いていたのか、記憶にない。
心源院から高尾駅に至るそのコースは数キロある。小学生の私にとっては、かなりハードなコースだ。
山道の途中で疲れてしまった私は、「おじいちゃん、疲れたよ」と、祖父に言った。祖父は、「そうか、疲れたか。じゃあ、少し休むか」と言って、私を近くの石の上に腰かけさせてくれた。そして、足元に生えている野生の蕗を根元からもぎ、皮をむいて、私に手渡してくれた。「どうだ、食べてみるか。うまいぞ」と。
私は初めて見る、浅緑色をした瑞々しい茎をかじった。ちっとも、おいしくなかった。ただ苦いだけだった。
祖父は、典型的な明治男だった。自分にも他人にも厳しかった。
都内の小学校の校長を長年務め、定年後は千葉にある教員養成大学の教授をしていた。朝四時に起き、五時に家を出て、千葉にある勤務校に二時間かけて通う。休みの日には、真冬でも庭で水浴びをしていた。
我が家は八人の大家族。食事中は会話厳禁。家長である祖父が食べ終わるまで、誰も食卓を立ってはいけない。そんな家だった。しかも、祖父は六〇歳を越えてもなお、当時四〇歳を越えていた私の父と意見が合わなかったり、口の利き方が気に食わなかったりすると、取っ組み合いの喧嘩をしていた(まあ、父も父だが…)。
私が中学生の時のこと。
ある日曜日の昼過ぎ、珍しく祖父と二人でテレビ番組を観ていた。その番組は、ある中学生が期末テストで友人に負けてしまったため、後日、その友人に意地悪をする、という内容だった。
祖父は、私に聞いた。「お前は、意地悪をした生徒のことをどう思う?」
私は、「そりゃ、自分が負けたからって、友だちを妬むなんていけないことだと思う」と、答えた。
すると祖父は意外にも、「そうじゃないぞ」と言った。そして、「人を妬むことは誰にでもある。それは悪いことではない。でも、その時に、そういう自分を恥ずかしいと思う、もう一人の自分がいることが大事なんだ」と。
私が予備校の時のこと。
夕食後、私が自分の部屋でテレビを観ていると、祖父がドアをノックした。祖父から声をかけてくるなんて珍しいことだった。「苺を買ってきたぞ。一緒に食べないか。甘いぞ」「あぁ、うん…。わかった…」。私は生返事をして、そのままテレビを観続けていた。結局、苺は食べなかった。
翌朝、祖母の叫び声で目が覚めた。「おじいちゃんが、何だか大変なの!」。私は、廊下の向かいにある祖父と祖母の寝室の襖を開けた。祖父が苦しそうに呻いていた。私は、何が起きているのか分からなかった。祖父はあっという間に、逝った。心筋梗塞だった。枕元には、出勤のために準備していた鞄が置かれていた。
祖父はいま、心源院のお墓に眠っている。祖父と一緒に食べた野生のふきの瑞々しい苦さ、食べられなかった苺の甘さ。仏間にある額縁の中で、苦虫を噛み潰したように、でも、優しそうに微笑んでいる祖父の遺影を見ると、いまもその味が思い出されるのである。
※本稿は「第1回・瀬戸山文体探求塾」(2023.5)の課題として作成したものです。
■課題内容:「グルメ的食談義と線を引き、食べ物にまつわる自他の人生模様や、ホロ苦がかったり、懐かしかったり、甘ずっぱかったりなど、過去に出会った場面を、情感豊かに物語化する」。