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言端拾い~第18回坊ちゃん文学賞応募作①

「あー駄目だ。全然浮かばない!」
 落選続きの文学賞の締め切り間際、例によってびた一文字進まない原稿に嫌気が差した私は、これまた毎度のことだが、気分転換という名の逃避行に出たのだった。

 ネタの種を探しつつ、リタイヤ寸前の車で海沿いを走っていると、名前も無さそうな狭い浜の一角に、人が集まっているのが見えた。
 ザルやゴミ拾いのトングを使い、波打ち際をさらっては、何か拾ったり、他の人に見せたりする。美化活動のボランティアにしては様子が妙だ。 「何をされてるんです?」
「ワードコーミングですよ」
 畳んだ新聞ほどの木枠を持つ男が、海面から目を上げずに答えた。真剣な眼差しの先で、枠に収まった潮水が揺れる。
「波に乗って漂着する言葉の切れ端――言端 ことばを拾っているのです」
 幾度か振るって引き上げた枠には、細い糸が格子状に張ってあった。糸の間を潮水が滑り落ちた後に、ほの白く光る砂粒のような粉末が残った
「……塩の結晶ですか?」
 風に吹かれて、私の頬にも粒が当たる。
 耳元で微かに音が跳ねた。目をつむって炭酸水のグラスを近付けた時に似た、涼やかなさざめきが弾けて消えた。
「手き詩です。私は代々の職人で、波の声を拾い集めて詩を漉いています。この浜の波たちは、実に味のある良い声をしていましてね」
 慣れた手つきで水を切り、枠から外されたそれは、紙の形をした一篇の詩だった。
 青く澄んだ波音が、寄せては返す度、人の文字では表現し得ない詩を詠う。足元を濡らす潮騒とはまた違って、遥か遠くを旅して帰ったような、胸に懐かしい響きだった。
「他の方々も、貴方の様な職人なんですか? ずいぶん道具に幅があるようだが」
「太古の昔から、海は数多の音、声、言端を呑んできました。用途も目的も、拾う言端も人によって違います」
 漉き終えた詩をていねいに鞄へしまうと、職人の男は浜に集う何人かを指し、めいめいが狙う『獲物』について解説してくれた。
 たとえば、やや波から遠い、浜の中央辺りを熊手で掃く少女は、砂に書かれたメッセージを掘り起こし、サンドアートのアルバムを作っている。
 虫取り網で空を掬いながら走り回る家族連れは、潮風が運んだ噂話を収集し、夏休みの自由研究に使う予定だ。
 海水を汲んだガラス瓶を太陽にかざす青年は、駆け出しの細工師だ。南から流れ着いた真珠貝の呟きをつなぎ、恋人に世界で一つの首飾りを贈ろうとしている。
 虫眼鏡で波紋を丹念に観察する老人は、海洋考古学者。波層に紛れ込むアトランティスの痕跡を調べ、かの国が海底に沈む前の、在りし日の姿を解き明かすのが生涯の夢だそうだ。
「面白いですね。皆さんそれぞれの理由で言端を拾っておいでだ。せっかくだし、私も試してみようかな」
 物にできるかは知れないが、何かの足しにはなるだろう。波に手を伸ばした私に職人は問うてきた。
「貴方はどんな言端をお求めですか?」
 書けない小説のネタを探して、藁にもすがる思いだとも言えない。
「通りすがりの興味本位ではいけませんか? 言端を拾うには、専門の資格が必要だとでも?」
「言端を必要としない人間に、この浜へ立ち入ることはできないのですよ」
 肚の内を見透かされた気分だった。どんなと訊かれても答えられない、自分の書きたい話も、書く熱意も見失い、惰性で筆を執るだけの作家くずれ。近頃では肝心の筆すら動かなくなり、折れる機会を待っているような体たらくだ。
「……やっぱり止めておきましょう。生憎と手ぶらで来てしまった。こんなことなら、愛用の万年筆を持って来るんだったな」
「ポケットにお持ちの、それは?」
 言われて探ったズボンのポケットに、丸めた紙くずが突っ込まれていた。部屋に散らかしてきた原稿だと、感触で分かる自分が忌々しい。
「言端を拾うには、発端となる触媒が必要です。私の漉き枠に、詩の元になる音律の糸口が張ってある様に、貴方の道具にも、貴方が拾うべき言端の原点が宿っているでしょう」
 それきり会話が途切れ、職人は波に枠を浸して、新しい詩を漉き始めた。いいだけ翻弄されたあげく、尻尾を巻いて逃げるのもしゃくだ。原稿用紙のしわをズボンの膝で直し、私も海に向かう。
 原点どころか全くの白紙で、何が拾えるものか。ぞんざいに原稿を漬け、ざぶざぶゆすいで上げる。――ほら見たことか。鼻で笑って広げた用紙の、罫線で区切られた升目の角を、黒ずんだ粒が泳いだ。
 恐る恐る触れた粒はごく小さく、それでいてあまりに見慣れた形だった。「これ……文章の句点だ」
 指の腹を転がった『マル 』が、指紋にこびり付くインクの青に染まって融けた。
 職人を振り返るが、もう彼は答えてくれなかった。再び原稿を波にくぐらせる。升目の三割弱を黒い文字が占めた。
 今度は触らずに繰り返す。薄い紙が、破けることもなく文字を拾っていく。夢中で拾い続け、四百字が埋まった頃には、陽はとっぷりと暮れていた。
 近年稀な高揚感を抱え、私は浜を後にした。
 とうに枯れたと思っていた創作意欲。言葉を紡ぎ出す力が、私にはまだあるのだ。たった一枚の原稿に並ぶ文字列が、話の態を成していないことなどどうでもよかった。まだ書ける、書き続けて良いのだと、助手席に収まった言端たちが、各々の音でささやきかけてくれるようだった。

 以来、私は浜に日参し、憑りつかれたように言端を拾った。
 夜明けに封を切った原稿用紙の束が、残らず文字で塗りつぶされるまで、何枚も、何枚も。支離滅裂な羅列は次第に単語を形成し、文法や用字を学び、話の体裁を整えていった。
 その過程は、赤ん坊が耳から音を吸収し、自らの頭と口で言語を獲得していく様を思わせた。破り捨てた書き損じや、陽の目を見なかった落選作を投じると、話はいっそう複雑さを増し、次々と表情豊かな産声を上げた。
 ひたすら楽しかった。充実していた。我が子の成長を見守る心境で、私は過去の残骸を捧げ、原稿用紙を埋め尽くした。


 バベルの塔のごとく積み重なった原稿に囲まれ、私は乾いたペン先を机に打ち付けていた。
 数えるのも馬鹿らしいほど見送った、何かの賞の締め切り日だ。砂まみれの紙は表面に塩を吹き、蜘蛛の巣も張らない升目をフジツボが覆っている。ぎぎぎ――と耳障りな音で万年筆が板を削り、黄ばんだ白紙を斜めに裂いた。
 いつしか私は、原稿に向かうのが怖くなっていた。
 書けないのではなく、書き込んでふと気づくのだ。――あぁ見たことがある。これも、この単語も構文も、この展開もどこかで見た。気づいて確かめる原稿に、同じ表現が載っている。忘れ果てるほど遥か下層から発掘された場面が、今まさに書き終えた話と寸分違わない。
 創作を志す者にとって、流用と盗作は絶対の禁忌。私は知らず知らずのうちに、それを犯していたのだ。
 もちろん何も見なかった顔で、言端がつづった原稿を書き写すこともできた。元々私が拾い、私の過去から育てた世界だ。私の作品と呼んで何が悪いだろう。
 しかし、どうしても納得が行かない。たとえ結果は実らなくても、自分の手をインクで汚し、升目の海に溺れ、時間と、体力気力の限界と戦いながら書いてきた。私が欲しいのは完成品の模造でも、過去の断片の焼き直しでもない。ここで誘惑に負け、一作でも手を染めてしまえば、二度と新しい話は書けない気がした。
 さりとて生まれた我が子を火にくべ、無に帰す度胸も涌かず、天井に達したところで原稿の塔は止まった。浜からすっかり足が遠のき、私の筆も沈黙したまま。机の前に閉じ篭もり、時間だけが過ぎていった。
  
 ――背を向けて久しいあの浜に、私は独り立っている。
 もはや道もおぼつかないのに、どうやって辿り着いたのか。ひと気の絶えた浜は、象形文字めいた足跡の名残りを砂に刻み、夜の静寂に包まれている。革靴を脱いだ素足の底を波が洗う。
「言端を必要としない人間に、この浜へ立ち入ることはできないのですよ」
 漉き詩の職人の問いを思い出す。いまだに私が求めている、拾うべき言端とは何だろう。何百万の文字を拾っても探し出せなかった、埋まらない空白の最後を埋める一文字は。
 折れた万年筆も、升目のかすれた原稿用紙も放り、空っぽの手を海にさらす。
 発端となる触媒。すなわち物書きにとっての最上の道具は、ペンを握って文字を生み出す、自身の両の手に他ならないのだから。
 
 言端の波が指の間を満たし、すり抜ける刹那、透明な感触が掌に収まった。
 シーグラスのようにざらりと粗く、不思議と手に柔らかな文字の瓶。栓を引き抜くと、ポンと小気味の良い音と共に、詰まっていた言端がこぼれ落ちた。
 初めて選考に通ったコンクールの、ささやかな新聞の見出し。文筆仲間と徹夜で刷った冊子。突き返された持ち込み原稿に挟んであった書評。頑張れよと肩を叩いてくれた友人の手紙。――他にもある。授業の合間にこっそり書いたノート。最初にもらった国語の花丸。クレヨンで書きなぐったひらがな。それから、それから――
 
 拍手の音。参観日、緊張に震えた声で、つっかえつっかえ読んだ作文。後ろで聞く母の、人目もはばからない特大の拍手。先生もクラスメイトも笑っていたけれど、その無邪気な音が、今にして思えば原点で全てだったのだ。
 私が目指していたもの。書きたかった理由。何より伝えたかった言葉は。「……ありがとう」
 掌いっぱいにハートマークがあふれ、きらきら瞬きながら、さざなみの雫になって海へ還った。唇に引っ掛かったひとひらは、塩辛くて温かでほのかに甘い、嬉し涙の味がした。

 止まっていた筆を動かし、新しい物語を創るには、まだしばらくかかりそうだ。
 だが、書けないことに焦り、無理をする必要はない。私は十分に持っているのだから。
 私の言葉は、これまで生きてきた日々の中に、数限りなく注がれ、与えられ、受け取り続けた、幸せの欠片で書かれている。
 そしてまた書き続けるのだ。いつか次の誰かが拾うかも知れない、希望の切れ端を紡ぎ出す為に。